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岡山地方裁判所 昭和60年(わ)167号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

〔凡例〕

以下の説明に当たっては、便宜上次のような略称及び表示を用いる。

1  関係人について《省略》

2  書証については、原本と謄本を強いて区別せず、日付を「60・1・26」のように数字のみによって表示するほか、以下の略称を用いる。

「員面」 司法警察員に対する供述調書

「検面」 検察官に対する供述調書

「報」  捜査報告書

3  証人の供述については、当公判廷における供述と公判調書中の供述部分を区別せず、「証人某の証言」と表示し、公判回数を括弧書きする。

第一公訴事実の要旨

被告人は、Tと共謀のうえ、別表一、二記載のとおり、岡山市津島笹が瀬《番地省略》同人方ほか一か所において、昭和五九年度セントラルリーグ及びパシフィックリーグ野球選手権の各試合につき、優勢とみられるチームに対しては一定の点数をハンディキャップとして負担させ、これをそのチームの得点から除算して勝敗を決する方法により、賭客をして勝ちチームを予想指定させ、予想の的中した時は所定の割合に応じた賭金の九割を勝者に支払うが、残り一割りは手数料名下にその賭客から徴収し、予想が的中しない時は、所定の割合に応じた賭金を徴収する約定のもとに、俗に野球賭博と称する賭銭賭博を開張し、昭和五九年五月九日ころから同年七月五日ころまでの間、賭客であるVほか一名から一口を一万円として合計一万九、一九五口、賭金額合計一億九、一九五万円の賭金の申し込みを受け、もって賭博場を開張して利を図ったものである。

第二本件の争点

本件においては、Tが捜査段階において、被告人との共謀により野球賭博を行った旨の供述をし、U及びYがやはり捜査段階において、概ねこれに符合する供述をしているほか、物証として、昭和五九年七月六日(以下、日付は特に断らない限り、昭和五九年のものである。)にV方に届けられたとされる七六万九、〇〇〇円の現金が存在し、その現金の帯封に記されていた数字が被告人の筆跡によるものであるとする筆跡鑑定が存するところ、検察官は、右現金が七月三日から三日間のTのVに対する野球賭博の清算金であって、被告人がTの野球賭博を援助するために出捐したものであると主張する。

しかし、被告人は、Tの行った野球賭博は、Tが単独で行っていたものであり、被告人は無関係であるとして、共謀の事実を全面的に否認し、T、U及びYは、いずれも、当公判廷において捜査段階での供述を翻し、捜査段階では警察官に暴行、脅迫等を受けた旨供述する。

そこで、以下においては、T、U及びYの各捜査段階における供述の信用性を順次検討し、次いで、筆跡鑑定等の証拠の信用性等に触れ、更に、七月六日にV方に届けられたとされる現金の趣旨等についても考察する。

第三当裁判所の判断

一 前提となる事実

以下の事実は、関係各証拠によって認めることができ、検察官及び弁護人も概ね争わないところである。

1 被告人は、昭和四九年一二月ころ、暴力団岡山X組組長となり、昭和五九年六月五日実兄のSが暴力団山口組四代目組長に就任したことに伴い、兵庫県姫路市に本拠を置く暴力団X組組長の地位に就任したものであり、Tは、被告人が岡山X組組長であった当時から同組の若頭をしていたものである。

2 Tは、昭和五九年三月下旬ころから自宅において、電話を使用して、V及びWを相手方として連日のようにいわゆる野球賭博の胴元として賭博の申込みを受け付けていた(その賭金総額及び賭博の状況については争いがある。)。V及びWは、いずれもいわゆる中間胴であって、多数の賭客から賭博の申込みを受け、そのうちの一部をTに通しており、Tは、大阪方面のいわゆるハンディ師から入手したハンディをVらに流していた。

3 Tは、同年六月下旬、Wらに捜査の手が及んだことから、自宅で野球賭博の申込みを受け付けることに不安を感じ、元X組組員のUの了解を得て、U方に場所を移し、七月六日Vが賭博開張図利で逮捕されるまで野球賭博の申込みの受付を続けた。

4 TがVらと行っていた野球賭博では、毎週月曜日と金曜日が清算日と決められており、七月六日は丁度清算日に当たっており、Tは、Vに対し同月三日から三日間の野球賭博の清算金として七六万八、六〇〇円を交付すべき義務を負っていた。

5 同月六日午前、被告人は、散髪のため岡山市内の理髪店に出掛けるため、組事務所からX組組員のYの運転する乗用車で外出したが、その際、被告人は、Yに現金七六万九、〇〇〇円の入った封筒をVに届けるように指示してYに手渡した(この時の細かい状況については、後に検討する。)。

6 同日、Vは、賭博開張図利の容疑で岡山東警察署に逮捕され、同人方も警察の捜索を受けたが、同日午前一〇時ころ、YがV方を訪れ、捜索中の警察官を家人と誤認して右封筒を手渡した。右封筒は、捜索に立ち会っていたVの妻Z子にいったん手渡され、同女から警察官に任意提出された。

7 同日午後一〇時ころ、V方をTが訪れ、現金七七万円位(正確に七七万円であったかは後に検討する。)をVの妻Z子に手渡した。

二 本件捜査の状況

1 Tの取調べ状況等

(一) 関係各証拠によれば、Tの身柄の拘束状況については、以下の事実が認められる。

59・12・15 Aとの共謀による賭博開張図利の事実(以下「第一事実」という。)について逮捕

12・16 第一事実について勾留(岡山西警察署)

12・24 第一事実について釈放、Bとの共謀による賭博開張図利の事実(以下「第二事実」という。)について再逮捕

12・26 第二事実について勾留(岡山西警察署)

60・1・14 第二事実について釈放、本件(Uとの共謀による賭博開張図利)について再々逮捕

1・16 本件について勾留(岡山西警察署)

2・4 本件について起訴(引き続き岡山西警察署に勾留)

4・4 岡山刑務所に移監

なお、Tは、当時糖尿病及び高血圧を患っており、この間四回済生会病院で治療を受けているほか、二回いしま病院の医師の診察を受けている。

(二) 司法警察員作成の61・3・1報によれば、Tは、この間、連日のように取調べを受けており、第一及び第二事実による逮捕、勾留期間は、取調べが概ね午後八時を過ぎることはなく、取調べ時間も概ね六時間以内であったが、本件による逮捕後は、取調べ時間が一〇時間を超える日が四回(60・1・15一二時間三〇分、1・21一〇時間七分、1・23一一時間三五分、1・26一〇時間一五分)あり、最も遅くまで取調べが行われたのは、午後九時四五分まで(60・1・15)であることが認められる。なお、関係証拠によれば、第一及び第二事実による逮捕、勾留期間は、甲野警部補が取調べを担当し、本件による逮捕、勾留期間のうち、昭和六〇年一月一四日から同月二六日の途中までは、乙山警部補ほか二名が取調べを担当し、同月二六日以降移監になるまでは、再び甲野警部補が取調べに当たっていたことが認められる。

当公判廷で取調べ済みのTの調書は、検面六通(60・1・31、2・18、2・27、3・11、3・13二通)及び員面二一通(1・26、1・27、1・28、1・30、2・1二通、2・5、2・6、2・7、2・15、2・18、2・23、2・24、2・25、2・26、2・28、3・4、3・12二通、3・13二通)の合計二七通である。ここで注目されるのは、右員面が全て同年一月二六日以降の甲野警部補の取調べによるものであり(証人乙山二郎の証言(第一〇回)によれば、乙山警部補らによる取調べの間は、逮捕直後の身上等に関する調書のほか、同月一六日付けで草加との関係等を供述した調書一通が作成されているのみであることが認められる。)、前記の長時間にわたる取調べが行われた時期が乙山警部補らによる取調べ時期と一致していることである。

以上のように、Tは、第一及び第二事実について長期間身柄を拘束されたうえ、本件事実についても、逮捕後最初の一二日間は、相当長時間にわたる取調べが行われたが、Tは、被告人との関係について否認を続け、同月二六日に取調官が代わってから自白するに至ったものであり、しかも、起訴後も連日取調べを受けていた。

2 Uの取調べ状況等

(一) 関係各証拠によれば、Uの身柄の拘束状況については、以下の事実が認められる。

60・1・19 Tの賭博開張図利の幇助の事実で逮捕

1・21 右事実で勾留(瀬戸警察署)

2・9ころ 右事実で起訴(引き続き瀬戸警察署に勾留)

3・13 西大寺警察署へ移監

3・22 保釈

なお、関係証拠によれば、Uは、昭和五八年九月ころから昭和五九年二月ころまで、動脈瘤により入退院を繰り返す状態であったが、右勾留当時は、特に投薬等治療は受けていなかったものの、勾留中三回診療を受けていることが認められる。

(二) 司法警察員作成の61・3・12報二通によれば、Uは、勾留期間中、連日にわたって取調べを受け、特に、昭和六〇年一月二二日からの五日間は連日長時間の取調べを受けており(60・1・22一二時間一二分、1・23八時間二五分、1・24九時間二三分、1・25八時間四四分、1・26九時間四分)、また、同年二月一五日及び一六日の二日間も長時間の取調べを受けている(一〇時間四二分、一〇時間四分、殊に同月一五日は、午後一一時まで取調べが行われている。)が、それ以外は、概ね取調べ時間が八時間を超えることはなかったことが認められる。なお、関係証拠によれば、瀬戸署に勾留中は、丙川警部補ほか三名がUの取調べに当たっていたことが認められる。

当裁判所で取調べ済みの調書は、検面二通(60・2・18、3・11)及び員面一〇通(1・19、2・5二通、2・6、2・7、2・12、2・16、3・4、3・11、3・15)の合計一二通である(このほかにも、60・2・7検面がある。)。これによると、Uは、60・2・4まではTの賭博開張図利の幇助の事実を否認し、60・2・5員面(第一、本文六丁のもの)で初めて右事実を認め、60・2・16員面で初めて被告人の関与について供述するに至ったものであり、起訴後も連日取調べを受けていた。

3 Yの取調べ状況等

(一) 関係各証拠によれば、Yの身柄の拘束状況について、以下の事実が認められる。

60・2・7 Tの賭博開張図利の幇助の事実で逮捕

2・9 右事実で勾留(総社警察署)

2・28 処分保留で釈放

(二) 司法警察員作成の61・4・19報によれば、Yは、この間、殆ど連日のように取調べを受けているが、このうち、七時間を超える取調べを受けたのは、三回で(60・2・12七時間一六分、2・13八時間三三分、2・18八時間一八分)、それ以外は、全て七時間以下であることが認められる。なお、関係証拠によれば、Yの取調べには、丁岡巡査部長ほか一名が取調べに当たっていたことが認められる。

当裁判所で取調べ済みのYの調書は、検面三通(60・2・19、2・28、3・13)のみであるが、員面も何通か作成されているものと推測される。

4 被告人の取調べ状況等

(一) 被告人の身柄の拘束状況は、以下のとおりである。

60・2・1 Aとの共謀による賭博開張図利の事実で逮捕

2・3 右事実で勾留(岡山東警察署)

2・21 右事実につき釈放、本件(Tとの共謀による賭博開張図利の事実)で再逮捕

2・23 本件で勾留(岡山東警察署)

3・14 本件で起訴

(二) なお、関係証拠によれば、この間、被告人に対しては、一通の員面も検面も録取されていないことが認められる。

三 関係人の供述の検討

1 総説

T、U及びYは、前記のとおり、捜査段階でいずれも被告人とTとの共謀の事実を裏付ける供述をしている。一般に、暴力団組員又は元組員は組長を庇うのが通常であり、これらの者が組長の犯行への関与を認める供述をするということは、多くの場合、組からの離脱を図るという動機を伴い、そのため後日組から報復を受ける危険を予想し、これを敢えて冒してすることであるから、その供述の信用性は高いと考えられるところである。しかし、本件において、Tらは、いずれも捜査段階で暴行、脅迫を受け、虚偽の調書を作成された旨当公判廷で供述しているので、その供述の信用性を判断するに当たっては、特に慎重な考慮を要するところである。

これら関係人の供述調書は、前記のとおり、多数に上るが、本件においては、主任検事である戊田検事が「員面調書と同旨の供述である場合には、その記載を参照して検面調書を録取した」と証言する(第一三回)ように、検面調書が概ね員面調書の記載に依拠して作成されたものと言って差し支えなく、これらの者の検面調書の信用性を判断するには、員面調書における供述経過を検討することが不可欠であると考えられるので、以下、特にTとUの供述内容の検討に当たっては、員面調書を含めて供述経過を見ることとする。

2 供述の変遷状況

T、U及びYの供述には、以下に見るとおり、多くのしかも重要な点で不自然な変遷がある。

(一) Tの供述の変遷

(1) 被告人の関与の有無について

野球賭博への被告人の関与の有無は、Tの供述の核心部分とも言うべきであるが、この点についての供述には、著しい変遷が見られる。

すなわち、Tは、60・1・26員面において、「野球賭博の胴をするようになったのは、私の所属する暴力団X組組長Xから誘われやるようになったのですが、その誘われたいきさつは、昨年の三月初めごろ、X組岡山事務所に行っていたときの夕方ごろ、事務所内でX組長が私に『T、今年はお前が野球をやってみんか』と誘ったのが最初でした。そのとき、私は、野球と聞いて、すぐに野球賭博のことだということがわかりましたが、もし私がやるとすればいくらかの資金がいることであり、そのころ、まとまった金もなかったので、はいと返事だけすると、組長は私が考えていることを察したのか『金のことは心配せんでもええ、わしが面倒を見てやる、そのかわり儲けのなんぼうかをくれたらええ』と言い、それで、組長が金を出してくれるということは、一緒に野球賭博をやろうということだと私は思い、ちょうど小遣い銭にも不足していたので『やらせてください』と返事をし、やることになりました。」と供述し、被告人の方からTに野球賭博の開張をもちかけた内容となっている。

ところが、その後60・1・27員面から60・2・15員面まで一〇通のTの調書においては、被告人の名前は全く現れず、専らUとの共謀による犯行の状況が供述されている。例えば、60・1・28員面(60・1・31検面も同旨)では、「私が野球賭博をやるようになったいきさつは、昨年の三月中ごろ、X組岡山事務所で、私の兄貴分にあたるUと会った際、Uから、『Vという者が野球をやりたいと言うとるので、お前野球をせんか』と言われ、野球というのは、野球賭博のことだということは、すぐにわかり、当時私は小遣い銭にも不足していたところから、『やらせてくれ』と言いました。」と供述している。もっとも、60・2・7員面では、Tは、Wとの賭博の負け金の処理に関して、「問 七〇〇万円位負けがあったことについてその金はどうしていたのか。答 名前は言えませんが、ある人から最高五〇〇万円位の金を借ることが何度かあり、その急場をしのいで来ていて、後半部分で儲けた金を返しています。そのある人の名前は今は言えません。」と供述し、また、60・2・15員面では、Tは、七月六日にVに交付する金員の工面について、「金の段取りをする相手方については、そのとき私はUに言っていますが、今は誰かということは言えません」と供述し、被告人の名前を出すことを予告するような思わせぶりな供述となっている。

果たして、60・2・18員面(同日付け検面も同旨)において、Tは、「今までの調書で資金の援助をしてくれていた人の名前について『今は言えない』と言っていた人は、実は、私の所属しているX組組長Xですので、これから、私が野球賭博をやるようになったいきさつや、X組長のかかわりについて話をします。」と供述し、X組では昭和五七年度はTが、翌五八年度はUが、それぞれ被告人の資金援助の下に野球賭博をしていたところ、Uが動脈瘤を患って組から除籍になり、昭和五九年度の野球賭博をすることができなくなったことから、同年三月初めころ、同人からTに野球賭博の胴元を代わってくれるよう依頼があり、Tが被告人に同年の野球賭博をすることを申し出て、被告人もこれを了解した旨供述している。そして、以後の調書において、Tは、概ね被告人との共謀の状況を敷衍して供述している。

このように、Tの供述は、60・1・26員面において被告人の関与を明確にしていながら、翌日以降の調書において、この点に何も触れずに、しかも、供述の変更についての理由を明らかにしないまま、Uから誘われて野球賭博を行った旨の供述へと変わり、更に、60・2・7及び60・2・15各員面の思わせぶりな供述を経て、60・2・18員面において、初めて被告人の関与を自白したかのような供述へと変わっているのである。確かに、当初否認していた被疑者が、捜査の進展に伴い、曖昧な供述を経て、自白に至るということは、必ずしも珍しいことではないが、いったん自白をしておりながら、理由もなくこれを撤回し、最初の自白を無視した形で、初めて自白するに至ったかのような供述をするということは、異例であり、かつ極めて不自然であると言わざるを得ない。この点について、Tの取調べに当たった甲野後部補は、「Tは一月二六日に概略の話をしたが、その後はいずれ詳しく話すということで、本人が意図的に親分抜きの話をした。」旨証言する(第九回公判)。しかし、60・1・28員面では、Uから誘われて野球賭博を行うようになったと述べ、被告人から誘われた旨の60・1・26員面における供述とは明らかに矛盾する供述をしているのであって、この点を全く追及しないのは不可解と言うほかない。また、Tが被告人に関する供述を避けていたというのであれば、問を発するなどしてその点を追及するのが取調官として当然の態度であると思われるのに、それをそのまま放置するのは理解し難く、右証言は、にわかに信用し難い。結局、右のTの供述経過には、取調官の作為が働いているとの感を禁じ得ないのであるが、仮に、Tが右のとおりの経過で供述したとしても、被告人の関与の点に関しては、否認、自白、否認、自白という経過を経ている訳であるから、このこと自体、その供述の信用性に大いに疑問を抱かせる事情であると言わねばならない。

(2) 負け金の処理及び利益の分配について

野球賭博の負け金の処理及び利益の分配は、被告人の犯行への関与を裏付ける重要な事実と言うべきであるが、Tが被告人の関与を認めた調書の中には、この点についても、以下のとおり供述の変遷が見られる。

まず、Tは、60・1・26員面において、「X組長からは、私が客との勝負で負けた際には金を何回か借りに行ったり、また儲けたときには、ある程度の金額になったとき、月に一―二回位その儲けの一部を持って行っていました。」と供述し、60・2・18員面(同日付け検面も同旨)では、「私がX組長から野球賭博の金について、援助を受けたのは四―五回位で、少ないときは五〇万円位で多いときは四〇〇万円位でした。儲けたときには、その儲けの一部を組長に出し、また負金が足らずのときは、出してもらうなどしていたのです。」と供述している。ところが、60・2・23員面(60・3・11検面も同旨)において、Tは、「三月終わりごろから、春の高校野球の甲子園大会の試合を対象に野球賭博を始めたのですが、私の負けの勝負が続き、そのため組長にその都度負金の面倒を見てもらうことになりました。最初私の考えでは、勝った場合の勝金を手持にして、その負金の払いをするつもりでしたが、先ほど言ったように、高校野球で私の負けが続き、高校野球が終わった四月初めごろでは、組長から出してもらった金が積もりに積もって、約八〇〇万円になっていました。もちろん、高校野球の試合で勝ったときもありますが、その勝金を払いにあてても約八〇〇万円の負けとなっていたのです。そのため、その後は、組長が出してくれていた金の払いに追われ、勝金の全額を組長に出すようになり、そのうち、組長からは、私が当座に必要な金をもらうという形になりました。このようなことで、七月六日にVが警察に捕まるまでの間負金は組長に全額出してもらい、また勝金についても全額組長に出し野球賭博を続けていたのです。」と供述を変更している。しかるに、60・3・12員面(第二、六丁のもの)(60・3・13検面も同旨)において、Tは、「勝った場合には、組長に言って、その一〇〇万円以下の端数を残して、全部組長に出しているのです。」と再度微妙に供述を変更している。

以上を検討するに、60・1・26員面と60・2・18員面では、Tの供述内容にさほど変化がないものの、60・2・18員面と60・2・23員面では、四月初めの選抜高校野球終了後の被告人の資金援助及び被告人への利益の供出が部分的であったか全面的であったかについて、顕著な供述の変更が見られるにもかかわらず、調書上供述の変更の理由について首肯し得る説明はされていない。また、60・2・23員面と60・3・12員面(第二)でも、利益を全部被告人に供出していたか、一〇〇万円未満の端数をTが領得することができたかの点について、供述の変更が認められるが、この点についても、調書上変更の理由は明らかにされていない。このように、重要な点に関する供述が、理由も説明されないまま大きく変遷するということは、極めて不自然であると言わざるを得ない(特に、60・3・11検面において60・2・23員面と同旨の供述をしていながら、その翌日の員面において右のように供述を変更しているのは、いかにも唐突の感を免れない。)。

(3) Uの関与の態様について

Tは、Uの野球賭博への関与の態様に関し、60・1・26員面において、Uからハンディ点を流している大阪の電話番号を教えてもらい、賭客のVを紹介してやると言われたほか、Uが当分の間手伝ってやると言うので、手伝ってもらうことにした旨供述し、60・1・28員面(60・1・31検面も同旨)において、Uから野球賭博をするよう誘われたうえ、ハンディを大阪から聞いたり清算金の計算なども手伝ってやると言われたので、同人に手伝ってもらうことにし、野球賭博を始めた三月末ころから四月末ころまで、T方で清算金の計算をしたり電話番等をしてもらったが、五月に入ってからは、清算の方法なども会得したので、Uの手伝いが不要になり、手伝いが一時中断したが、六月末ころ同人方に場所を移転してから、再び同人に電話番や清算金の計算等の手伝いをしてもらった旨供述している。ところが、60・2・1員面(第二、本文五丁のもの)において、Tは、勘違いがあったとして、Uから最初の一〇日間位に大阪市内のハンディ師の電話番号を教えてもらったりしたので、常時二人でT方で受ける必要がなくなったが、自分がハンディ点を得点に加減したり清算金を計算するのが苦手であったことから、その後も引き続き計算の得手なUに手伝ってもらった旨供述している。更に、Tは、60・2・6員面において、Uが最初の一〇日間位T方に来て野球賭博の受付を一緒にやり、その後はU方で毎日清算を手伝ってくれていたが、時には「不在になる」と連絡してくることがあり、その回数は二、三回で、長くて二日間位だったと供述を変更している。その後の調書では、専ら被告人との共謀の点が中心となっているため、七月六日の出来事を除いては、Uの関与に関する供述は少なくなっている。

以上を検討するに、60・1・28員面と60・2・1員面(第二)との間には、五月初めから六月末までの間にUの関与があったかどうかについて、明白な供述の変更が認められ、後者の調書に記載されているような「少し勘違いをしていた」と言うにしては、変更の程度が大き過ぎると言うべきである。また、Tは、前記のとおり、Uの名前を既に本件で逮捕直後の60・1・16員面で出している(この調書がU逮捕の疎明資料にされたものと推認することができる。)のであるから、Uとの共謀の事実を全面的に供述した60・1・28員面において、殊更にUを庇って、同人の関与の期間を短く供述したとも考え難い。次に、60・2・1員面(第二)と60・2・23員面との間にも、Uが途中不在となる期間があったかどうかの点について、微妙な供述の変化が見られるが、これは、後に見るとおり、捜査官を通じてUの供述が伝播したものと推認することができる。

(4) 七月六日のVへの清算金の支払いについて

七月六日のVに対する七六万八、六〇〇円の清算金の支払いの態様について、Tの供述は、被告人の関与の有無についての供述の変遷を反映して、以下のとおり、変遷している。

まず、Tは、60・1・28員面(60・1・31検面も同旨)において、Yが組事務所にいたので、電話でT方まで呼び出し、V方へ封筒を届けるよう言付けた旨供述し、60・1・30員面及び60・2・1員面(第二)でも、同様の供述をしている。しかるに、Tは、60・2・15員面において、TがUに架電し、Vに対する清算金を都合して同人方へ届けるよう依頼し、その後、Tが昼ころU方に行った際に、初めてUから同人が現金をYに持って行かせたことを聞いた旨供述している。そして、60・2・18員面(同日付け検面も同旨)において、Tは、七月五日の午後一〇時ころ、被告人に架電し、「また負けたので、明日の朝Uに取りに行かせますので、七六万八、六〇〇円を出して下さい。」と言うと、被告人が、「おお、ええぞ」と言ったので、翌朝Uに架電し、事務所に現金を取りに行くよう依頼した旨供述し、60・2・23員面では、右と同旨の供述に加え、60・2・15員面の後半と同旨(UからYに持って行かせたことを聞いた旨)の供述をしている。

このように、Tは、当初はYを自宅へ呼び寄せた旨供述していたのであるが、60・2・15員面では、Uに金の都合を依頼し、自分は後になってYが金を持って行ったことを知ったと大幅に供述を変更している。この点は、単に被告人を庇うだけであれば殊更に供述を変更する必要もないと思われる事柄であるだけに、不自然な供述の変遷と言うべきであり、後に見るとおり、Uの供述と符合させるため取調官が誘導したとの疑いが強い。

(5) 裏工作の態様について

七月六日の午後一〇時ころTがV方に持参し同人の妻のZ子に手渡した現金が、午前中にYが持参した現金が手形の金であることを偽装し、Z子に信用させるための裏工作の金であったかどうかについては、後に検討するが、この裏工作の態様についても、Tの供述には、以下のとおり、変遷が見られる。

すなわち、Tは、60・1・28員面(60・1・31検面も同旨)において、Yが午前中V方に届けた現金が警察の手に渡ったのではないかと不安になったが、右現金がVに借りていた約二六〇万円の手形金を支払ったものであるとVかZ子に言い含めることを思い付き、この考えをUにも言っていたところ、同日午後九時ころ、Z子からVが岡山東署に野球賭博で逮捕されたなどと聞いて、ますます午前中の現金のことが心配となり、直ちに、午前中と同額の現金を用意し、V方へ届けた旨供述している。ところが、60・2・15員面において、Tは、Uと二人で相談していると、同人が「あの金は、あんたの借金の手形の払いということにしたらどうだろうか」と言ったので、TもUの意見に賛成したところ、午後九時ころUがV方へ架電し、Z子に「昼前に持って行った金はTの手形の払いの金じゃから」と言い含めたが、電話を切ったUがTに「あの金は、警察に持って帰られ、Vさんも警察に逮捕された。手形の金と一応言っておいたが、信用させるためにはもう一度、野球賭博の金を付けてやっておいた方がよいのではないか」と言って、現金を届けることを発案し、結局、Uがその金を作り、午後一〇時ころ、二人でV方に届けた旨供述している。更に、60・2・24員面(60・2・27検面も同旨)では、60・2・15員面の前半と同旨(UがV方に裏工作の金を届けて信用させた方がよいと発案した旨)の供述をした後、結局、Tの発案で被告人に話をして金をもう一度出してもらうことにし、午後五時ころ二人でX組事務所へ行き、被告人から現金を出してもらった旨供述している。

これを検討するに、Tは、60・1・28員面では、自らの発案で裏工作をしたように供述していたのが、60・2・15員面では、Uが裏工作を発案し、Tがこれに賛成したように供述を改め、また、UのZ子への裏工作の電話があったという新たな事項を付け加えている。また、二重払いの工作資金の出所も60・1・28員面ではTであったのが、60・2・15員面ではUに変わり、更に60・2・24員面では、被告人の犯行への関与が供述されたことに伴い、被告人へと変わっている。こうして見ると、この点についての供述の変遷が不自然であることも、明らかである。

(6) その他

以上の他にも、Tの供述の変遷箇所は、いくつか指摘することができる。

例えば、被告人に出してもらった負け金のうち記憶にあるものが、60・2・18員面(同日付け検面も同旨)及び60・2・23員面では、「四月七日ころ三〇〇万円、四月一五日ころ一五〇万円、五月一一日ころ四〇〇万円」だったのが、60・2・25員面(60・3・11検面も同旨)では、「四月七日ころ三〇〇万円、四月一五日ころ五〇〇万円、五月一一日ころ四〇〇万円」と変わっている。この変更の理由には、プロ野球の試合結果があげられており、一応の説明が付いているように見える(後者の供述の合理性については、後に検討する。)。

また、Vへの二重払い工作の手掛かりとなるVに対する借金の趣旨について、60・2・24員面では、Tの妻C子が昭和五八年一一月ころ額面三〇〇万円の約束手形一通をVに割り引いてもらった残金二五〇万円である旨供述しているが、60・2・28員面では、妻C子が経営していたスナック「ルビー」の権利証を担保に借りた二八五万円の残金二三五万円である旨供述を訂正している。訂正の理由について、Tは、後者の調書において、二三五万円の借金を思い出したからであり、前の調書で手形の金と言ったのは、Uが「手形の払いの金ということにしたらどうだろうか。」と言ったからであると説明しているが、前者の調書の供述も具体性があるだけに、その真偽のほどは決し難いと言わざるを得ない。

(二) Uの供述の変遷

(1) 野球賭博への関与の状況について

Uは、前記のとおり、逮捕後一七日間は野球賭博との関係を一切否認していたものであるが、60・2・5員面(第一、本文六丁のもの)において、野球賭博の方法を昭和五九年三月中旬ころTから教えてもらい、Tと一緒に野球賭博をしたことは間違いない旨供述し、次いで、60・2・5員面(第二、本文一五丁のもの)において、その状況を敷衍し、Tから野球賭博の計算を手伝ってくれるよう頼まれ、最初の一〇日間位はT方で、その後は自宅で集計や電話番等を手伝っていたが、同年五月初めころTに留守にするので手伝えないと申し出て、野球賭博の手伝いを一切中断していたが、同年六月中旬ころ、Tから野球賭博の受付場所を貸してくれと頼まれ、同月末ころからスナミマンションの自宅をTに提供した旨供述している。しかるに、60・2・6員面において、Uは、同年五月初めころから六月中旬ころまで一切野球賭博と手を切っていたのは勘違いで、何日間か休んだことはあるものの、この間も継続して野球賭博の手伝いをしていた旨供述を変更し、更に、60・2・12員面において、野球賭博を初めてしたのが昭和五九年三月であるというのは嘘であり、実は昭和五八年三月が初めてで、Tに野球賭博の手ほどきを受け、最初の約二週間手伝ってもらった旨供述している。

このうち、昭和五八年にUが野球賭博の胴元をしたことは、同人も証言(第五回)で認めているところであり、その限りでは、供述の変更が事実に沿う方向で行われていると見ることができる。しかし、昭和五九年五月初めころから六月中旬ころまでの間、Tの野球賭博を手伝ったかどうかについての供述の変更は、単なる勘違いと言うには変更の程度が著しく、また、わずか一日で供述を変更している点も不自然であると言わざるを得ない。この点は、先に見たとおり、Tが60・2・6員面で、Uが毎日計算を手伝ってくれていたが、予め「不在になる」と連絡してきて留守にしたことが二、三回ある旨供述を訂正しているのと、正しく対応しており、当初食い違っていたTとUの供述が、取調官を通じて相互に伝播し符合するに至ったものと推測することができる。

(2) 七月六日にYにVへの清算金を言付けた状況について

この点について、Uは、60・2・5員面(第二)では、当日Vが約七〇万円以上勝っており、TがVに清算金を届けることになっていたので、Tが組事務所に架電し、事務所にいたYに持って行くよう依頼していたところ、Uが組事務所近くまで現金を持って行ってYに渡すことをTに申し出て、Tから現金入りの封筒を受け取り、組事務所の近くにある魚屋に行き、そこでYと会ってV方を教え、Yに現金入り封筒を渡した旨供述している。ところが、60・2・16員面(60・2・18検員も同旨)では、右供述が被告人を隠すための嘘の供述であったと断ったうえ、七月六日の午前Tから電話でVに対する野球賭博の負け金七六万八、六〇〇円を被告人から受け取って、組の若い者に持って行かせるよう頼まれ、気が進まなかったものの引き受けることにし、組事務所に赴いたところ、かねて面識のあるYがいたので、同人に頼んで引き受けてもらい、被告人に挨拶した後、Tから依頼のあった現金七六万八、六〇〇円を出してくれるよう依頼したところ、被告人もこれを了解し、その後しばらくして、被告人がテーブルの上に封筒を放ったので、Yに再度V方に届けるよう頼んだところ、Yも了承してこれを受け取り、被告人が「おい散髪に行くぞ」と言ってYとともに外に出たが、自分は組から除籍されていたので被告人を見送らず、しばらくして事務所を去った旨供述している。更に、60・3・4員面(60・3・11検面も同旨)では、Uは、「前回の調書では、親分が出してくれた現金入り封筒一通は、その場でYが受け取ったと言うておりますが、本当は、その場でYが受け取ったものか親分が散髪に出る時取って親分が渡したものか見てないのです。私は、Yに再度頼んだあと、すぐ、また通路の方までさがっておったため、その封筒を誰れが取ったか見てないのです。」と供述を訂正している。

このうち、60・2・5員面(第二)と60・2・16員面とで、当日の現金の出所がTから被告人に変更されていることは、後の調書の中で被告人を庇うために嘘を付いたと理由が示されており、一応筋の通った説明と言うことができる。これに対し、60・2・16員面では、Yが被告人から封筒を受け取った場所が事務所内のテーブルである旨明確に供述されていたのに、60・3・4員面ではその場所が不明である旨殊更に曖昧な供述へと変わっており、しかも、これについては首肯し得る理由が示されていない。これは、Yが被告人から封筒を受け取った位置が事務所の玄関の土間であることを図面まで書いて明確に供述している(60・3・13検面)ことから、Yの右供述と抵触しないよう、取調官がUを誘導したのではないかと推認することができる。

なお、U(第五回)及びY(第八回)の各証言等関係各証拠によれば、Uが七月六日朝組事務所に赴いた事実は認め難いのであって、Uの供述がこのように変遷しているのは、取りも直さず右の出来事が同人の記憶にないことに起因するものと思われる。

(3) V方に捜索があったことの情報について

この点について、Uは、60・2・5員面(第二)において、午後二時ころ自室にいるとTから電話があり、「Vさんのところにガサが入ったんじゃ」と知らされた旨供述しているが、60・2・16員面(60・2・18検面も同旨)においては、自室に戻って横になっているとTから電話があり、V方に捜索があった旨知らされ、「兄貴あの金は、誰にことづけたんでえ」と聞かれたので、「Y君に頼んだで」と答えると、「あの金は、警察の手に渡っているかもしれんのじゃ」と言われた旨供述している。しかるに、Uは、60・3・4員面において、昼過ぎころ自室に戻りしばらくすると、Tがやって来て、午前中の現金を誰に持って行かせたのか聞くので、Yに頼んだ旨答えたところ、Tは特に反応を示さず、午後一時過ぎころから、野球賭博のハンディを賭客に流すため電話をしていたが、午後四時過ぎころ、TがV方に架電した際、V方に警察の捜索が入ったことが分かったので、Tが午前中の現金が警察の手に渡ったのではないかと心配して組事務所に架電したところ、YがVに直接渡さず留守番の者に渡したとの情報を得た旨供述している。

こうして見ると、供述が徐々に詳細なものになってきていることが明らかであるが、そればかりでなく、60・2・5員面(第二)では、TがV方に捜索があったことを連絡してきただけで、Yに届けさせた現金が警察の手に渡った可能性には何ら触れていないのに、60・2・16員面では、TがUに誰がV方に現金を届けたかを尋ね、Yが届けたと聞いて、現金が警察の手に渡っているかも知れないと言ったことになっており、明らかに供述の変更が認められる。この後者の調書は、Uが被告人の関与を初めて認めたものであるが、右の供述の変更は、被告人の関与の有無と関係のない事柄であるだけに、不自然であると言うほかなく、変更の理由も調書上明らかにされていない。更に、60・3・4員面では、Tが架電してきたのではなく、U方に来て、V方に連絡を取っているうちに、同人方に捜索があったことを知り、これをUに告げたとなっている点で、それ以前の調書と大きく異なっている。また、60・2・16員面では、Tが組事務所から架電してきていたのに、60・3・4員面では、TがU方から組事務所に架電し、Yが留守番の者に現金を渡したことを知ったので、警察の手に渡ったらしいとUに言ったことになっており、この点でも、明白な変遷が見られる。これらの点には、いずれも、Tの供述の影響が顕著に認められるのであって、取調官を通じてTの供述が伝播したものと推認することができる。

(4) 裏工作の態様について

この点は、前記(3)と密接に関係する事柄であるだけに、同様の変遷が見られる。

まず、60・2・5員面(第二)において、Uは、Tから電話連絡を受け、Yに持って行かせた金のことが心配になり、V方に何度か架電したが通じず、午後一一時ころになってようやく通じたので、電話に出たZ子に「今日持って行った金は、私が借りておった金を払ったもんじゃから、勘違いせんように頼みます。」と言って工作した旨供述している。ところが、60・2・16員面(60・2・18検面も同旨)において、Uは、Tが電話でYに届けさせた金が警察の手に渡ったかも知れないと言うので、至急Tのいる組事務所に向かい、組事務所でTに謝るとともに、Yに対し、V方に届けた現金の趣旨についてUのVに対する借金だと言い含め、更に被告人に「私のために、申し訳ありませんでした」と言って頭を下げて辞去し、玄関あたりでTに「あの金は、わしが借りてでも払うから」と言って、午後二時ころ事務所を去った旨供述し、その後、V方に架電した状況について、前とほぼ同様の供述をしている。しかるに、60・3・4員面(60・3・11検面も同旨)において、Uは、前の調書では被告人に二重払いの裏工作の現金を出してもらったことを言えなかったと断ったうえ、TがYに届けさせた現金が警察の手に渡っているかも知れないと心配するので、UがVに対する自分の借金の一部の支払いということにすればよいと言い、更に、Vに午前中の現金が手形の金であるということを信用させるためには、もう一度野球賭博の金を届けてやった方がよいと言ったところ、Tもこれに賛成し、組事務所へ行って被告人にもう一度金を出してもらうことにし、午後五時ころ二人で組事務所に赴き、TがYに「ぬるいことをしたなあ」と叱り、UもYに現金の趣旨について言い含め、その後Tが被告人にYがV方に届けた現金が警察の手に渡った旨報告したうえ、右現金をUの手形の支払いとするため、もう一度同額の現金を出してくれないかと頼み、Uも手形の借金の趣旨を被告人に説明したところ、被告人は財布から現金を取り出してTに渡してくれ、Uは組事務所を辞去し、その後午後一〇時ころZ子に電話で金の趣旨について言い含めた旨供述している。

これを見ると、60・2・5員面(第二)には、Uが組事務所に再度赴いたことはもとより、Yに口裏を合わせるように工作したことなどが全く現れていないのに、60・2・16員面にはこれらのことが現れ、更に、60・3・4員面には、被告人に再度現金を出してもらった点以外にも、V方に届けた金の趣旨をU自身の手形の借金とし、このことをVに信用させるために二重払いの工作をすることを発案したことや、TがYに「ぬるいことをしたなあ」と叱ったことなどが初めて現れ、逆に、60・2・16員面にあった被告人に謝罪したことが脱落するなど、供述の変遷が著しい。更に、いささか細かい点ではあるが、Z子に口裏合わせの工作をした時刻が、60・2・5員面(第二)では午後一一時ころとなっているのに、60・2・16員面では午後一〇時過ぎとなり、60・3・4員面では午後一〇時ころとなっているほか、60・2・16員面では、Uが事務所を辞去した時刻が午後二時過ぎころであったのが、60・3・4員面では、Uらが事務所に着いた時刻が午後五時過ぎころとなっている。そして、これらの変遷も、T及びYの供述と符合するように、しかもそれとなく巧妙に行われているのであって、取調官の誘導によるものではないかという疑いが極めて強い。

(三) Yの供述の変遷

Yの調書は、前記のとおり、検面が三通しか取り調べられていないのであるが、その中でも、重要な供述の変遷が見られる。

すなわち、Yが七月六日に被告人から預かった現金入りの封筒をVに直接渡さなかった件で後で被告人らに叱られたことについて、60・2・19検面において、Yは、被告人を車に乗せて事務所に帰ってから、Uに「誰に渡したんなら」と怒った口調で聞かれ、留守番の者に渡したと答えたところ、Uから「何でV本人に直接渡さなんだんなら」と酷く叱られ、被告人からも「何で本人に渡さなんだんなら」と言って叱られ、Uから「今日持って行った金は手形の金という事にしとけえ」と言って、因果を含められた旨供述している。しかるに、60・2・28検面において、Yは、右の点に思い違いがあったとして、被告人を車に乗せて事務所に帰ってから、被告人から「金はVに渡したんかい」と聞かれたので、留守番の者に渡したと答えたところ、被告人から「お前何でことづかった物を本人に直接渡さなんだんや、抜けた事をしやがって」と言ってきつく叱られたが、それ以上は何も言われなかったところ、午後四時過ぎころ、事務所でUから「お前金を誰に渡したんや」と言って叱られ、被告人からも同様に叱られ、また、Tからも「ぬくい事をしやがって」などと言われ、Uから「Vからは一五〇万円位の手形を引っ張っとるから、お前が今日持って行った金は、手形の一部の金ということにしとけえ」と言って釘を刺され、更に、Dから「断りをせえ」と言われたので、被告人やU、Tに対し、「どうもすみませんでした」と頭を下げて謝った旨供述を訂正している。

このように、60・2・19検面では、被告人を車に乗せて事務所に帰った直後にUと被告人に叱られ、Uから因果を含められたとなっていたのが、60・2・28検面では、被告人を車に乗せて事務所に帰った直後に被告人から一回叱られ、午後四時ころ今度はU、被告人、Tから再び叱られ、Uから因果を含められたとなっているのである。Yは、後の調書で、供述を変更した理由について、「私の思い違いが少しあり、怒られたことが頭に強烈に焼き付いていたことからごっちゃになっていました。」と弁解しているのであるが、怒られたことが頭に強烈に焼き付いているのであれば、そもそも二度にわたることを一度のことのように思い違いをするということは、考え難いところであり、右の弁解は、到底供述の変更の合理的理由となっていないと言うべきである。確かに、Yの証言(第八回)及び被告人の供述(第二一回)によれば、Yが被告人を車に乗せて組事務所に帰った直後、被告人から叱られたことは、事実であると認められるから、右の供述の変更も、その限度では事実に合致するものと言うことができるが、その余の部分、すなわち午後四時ころTらから再び叱られたという部分は、先に見たところから明らかなとおり、午後五時過ぎころ組事務所を訪れ、Yに金の趣旨が手形の金だと言い含めたとするUの供述(例えば、60・2・18検面)と符合しており、これが取調官を通じて伝播したものと推認することができる。

(四) 小括

以上のとおり、T、U及びYの捜査段階における各供述は、いずれも不自然な変遷が多く、しかも、時を追うに従って供述が相互に伝播し、供述が符合するように変遷しており、この間に取調官の誘導が働いたものと推察するに難くない。従って、これらの供述の多くは、記憶に基づかず、取調官の誘導によって得られたのではないかという疑いが強い。

3 供述相互の矛盾について

(一) 総説

一般に、事件の関係者が多数にのぼるときは、その供述の相互の間で、供述者の記憶の内容に応じて微妙な食い違いが生ずることは避け難いところであるが、本件において、T、U、Yの三者の間では、以下に見るように、単なる記憶の内容の差異ということでは説明できないような矛盾点が、少なからず存する。これらの者の供述は、既に見たように、変遷が著しいので、専ら供述の最終形(検面)について見ることとする。

(二) Uが清算金の使い走りをしていたことについて

この点について、Tは、先に見たように、負け金が一〇〇万円未満のときは、何度かUに被告人のところに清算金を取りに行ってもらっていた旨供述している(60・3・11検面)。ところが、Uは、60・2・18検面において、Tから七月六日に頼まれた際、「私は、組を除籍になってからというものは、X組事務所には一度病気見舞の内祝を持って行っただけで、それ以外は全く行っていなかったことから、Tに断ろうかとも思いましたが、わざわざTが私の家に電話してきて頼んでいるのでそれを断るのも悪いと考え、Tに『それじゃあ行ってくらあ』と言って電話を切ったのです。」と、七月六日の金の使い走りが一回限りのものである旨供述しているのであって、TとUの供述が矛盾することは明らかである。

(三) 七月六日朝の組事務所での状況について

この点について、YとUの供述には、以下に見るような不一致点がある。

すなわち、Yは、60・2・19検面において、当日朝、Uが組事務所に来ていたので、挨拶したが、その時はUから何も言われず、被告人が散髪に出かけるので、車の用意をし、玄関で被告人が出て来るのを待っていると、被告人が現れ、Uも見送りに現れ、被告人から玄関先で(この点について、60・3・13検面では、見取り図まで書いて、場所を説明している。)現金入りの封筒を渡され、その時、UがV方へ届けるよう言った旨供述している。これに対し、Uは、先に見たように、60・3・11検面において、当日、組事務所に入るとすぐ、Yに現金をV方へ届けるよう頼み、被告人が事務所のテーブルの上に現金入りの封筒を放ったので、Yに再度頼んだが、自分は除籍の身であったので、被告人を見送っておらず、Yが現金を受け取ったところは見ていない旨供述している。

このうち、特に、被告人が玄関に出た時にUが見送ったかどうかについて、Yは被告人から封筒を受け取ったこととUに依頼されたこととを関連付けて、明確に供述しているところ、この出来事は、Uにとっても、除籍後退院祝いを届けた時を除いては初めて組事務所に顔を出した時の出来事であるとすれば、印象深いことであるはずであって、同一の出来事を体験した両者の供述がこのように食い違うことは、常識的には理解し難いところである。

なお、Yは、60・2・19検面において、当日の朝Uが組事務所に現れた際、組員のEと野球の話をし、「今日は付けの日や、付けにゃあいけんのや」と言っていた旨供述している。しかし、この発言をした当のUの調書には、これに対応する供述が全く見られないのであって、この点も、一種の供述の矛盾と言うことができる。

(四) 裏工作の手形の借金の趣旨について

V方に届けた現金を、手形の借金ということで口裏を合わせ、更に、Vにこのことを信用させるため、再度現金を届ける工作をしたことは、TとUが一致して供述しているところであるが、その借金の趣旨について、Tは、自分のVに対する借金の残金約二三五万円の一部であると供述し、(60・2・27検面)、Uは、自分のVに対する額面一五〇万円の不渡り手形の手形金の一部であると供述し(60・3・11検面)、全く相容れない供述となっており、検察官も、どちらの手形の借金であるのか特定して主張できない状態である。手形の借金がTのものか、Uのものかという点は、重要な点であり、かつ、両者が記憶違いを起こすとは考えられない事柄であって、真実口裏合わせの工作が行われたのであれば、TもUも居合わせた場所における出来事であるから、供述が一致するはずである。それにもかかわらず、両者の右各供述が食い違ったままであるということは、それぞれの信用性に重大な疑問を残すものと言わねばならない。

(五) 被告人から現金を再度出してもらった時の状況について

TとUが七月六日の午後、組事務所に赴き、被告人に再度現金を出してもらった時の状況について、Yは、前記のように、まずUから「お前、金を誰に渡したんや」と酷く叱られ、次いで、被告人からも叱られ、Tからも「ぬくい事をしやがって」と叱られたりしたので、被告人やTらに謝罪した旨供述している(60・2・28検面)。ところが、この状況は、Tの供述(例えば、60・2・27検面)には全く現れておらず、Uの供述(60・3・11検面)には、TがYを叱ったことは出ているものの、UがYを叱ったことは全く出ていない。確かに、叱られた当人であるYが右の状況を明確に記憶していても、それ以外の者は明確に記憶してないということも考えられなくはないが、例えば、Tは、被告人の態度について「別に私達を叱るようなこともなかった」旨供述しているのであって、自分や他の者がYを叱っているのであれば、全く記憶に残っていないというのも、不自然であると言わざるを得ない。

(六) 裏工作の状況について

被告人から再度現金を出してもらった後の行動について、Tは、60・2・27検面において、Uと二人で組事務所からU方まで帰り、そこからUがV方に架電していると、午後九時ころ連絡が取れ、UがVの妻に、午前中届けた金がTの手形の金だと言っており、その後、Uと一緒にV方へ向かい、Tが一人でV方に入って、Z子に現金を渡して言い含めた旨供述している。これに対し、Uは、先に見たように、60・3・11検面において、組事務所を一人で辞去し、V方に架電していたところ、午後一〇時ころZ子と連絡が取れたので、午前中届けた現金がVに対する借金の一部の弁済であると言って、裏工作をした旨供述している。

このように、組事務所を退出した状況、V方に向かった状況が、両者の間で全く食い違っているのであって、同一の出来事を体験したはずの両者がこのような記憶違いを起こすとは考え難いところである。

(七) 小括

以上のような関係人の相互間の供述の食い違いは、いずれも単なる記憶違いとしては到底説明し得ないものである。これらの供述の食い違いが生じた原因を探ると、そもそも供述の対象となっている出来事が存しない(例えば、七月六日朝Uが組事務所に現れたこと(前記3(二)(2)参照)、同日夜被告人に裏工作の現金を出してもらったこと(後記4(七)参照))か、各人が別個に経験したことを捜査官が関連性のあるものとして意味づけて誘導した(例えば、裏工作の態様に関するTとUの供述の食い違い(後記五3(三)参照))ことによるのではないかと考えられるのであり、いずれにしても、到底供述の信用性を認めることはできない。

4 関係人の供述の真実性

(一) 総説

T、U及びYの捜査段階での供述について言えることは、総じて具体性に乏しく、秘密の暴露に当たるものがなく、合理性に欠ける内容が少なくないということである。以下、具体的に検討するが、これについても、前記3と同様、専らその最終形(検面)について見ることとする。

(二) 被告人との資金援助に関する話し合いについて

この点は、Tの供述にのみ現れているものであるが、Tは、先に見たとおり、組事務所で被告人に野球賭博の胴元を行うことを申し入れた際、被告人が「分かった。負け金については面倒をみてやろう。儲けたら上りのなんぼうかを出せや。」と言った旨供述し(60・2・18検面)、更に、被告人との間で利益の配分について特に決めていなかったことの説明として、被告人とTとはX組の親分子分であり、今回の野球賭博が組の資金を得るために行うことはお互いに判っており、やくざの社会では何事をするにもいちいち細かいことは決めないのが当然であるから、被告人との間で利益の配分について話合いや約束事をしなくても、Tとしては勝ち負けを被告人に正直に報告し、勝ち金を被告人に全額あげれば、最終的に決算して利益の中から御苦労賃をくれると思っていた旨供述している(60・8・13検面、第一、四丁のもの)。確かに、後者の調書でTが言うように、被告人とTとは長年親分子分の関係にあったものであり、いちいち言葉に出さなくてもお互いの腹の中が判るということがあったとしてもおかしくはないが、本件のような何百万円もの金が授受され、検察官の主張によっても被告人が約一、三〇〇万円もの資金援助をしたとされる野球賭博にあって、被告人が「分かった。負け金については面倒をみてやろう。儲けたら上りのなんぼうかを出せや。」という極く大雑把な文言によって多額の資金援助を約束するということは、常識的には考え難いところであり、被告人とTとの人的関係を考慮に入れても、利益の配分についてもう少し具体的な取り決めがあって然るべきではないかと思われる。また、この時の被告人とTとの話し合いは、被告人の共謀を裏付ける極めて重要な事実であり、Tとしても相当印象深い出来事であるから、かなり詳細な記憶があってよいとも思われるが、組事務所のどこで、どのような遣り取りがあったかについて、情景をほうふつとさせるような具体的な描写が全くなく、単にTと被告人の言葉が語られているに過ぎず、自白として内容が空疎であるとの感を免れない。

(三) 被告人に対する結果報告について

この点も、Tの供述にのみ現れているものであるが、Tは、60・3・11検面において、被告人に野球賭博の負け金を出してもらうのに、被告人に信用してもらうため、清算日である月曜日と金曜日の前日に集計が終わってから、被告人に野球賭博の清算の状況を「Fが何円の勝ちとか負け、Gが何円の勝ちとか負けで、差引いた金額が何円の勝ちとか負けとなる。」と報告していた旨供述する。しかし、プロ野球の公式戦においては、一日最高六試合が行われているところ、三日間で最高一八試合の通算の清算金のプラスマイナスの報告だけでは、資金提供者にとって余りにも大雑把なものであって、これを信用して何百万円にものぼる負け金を出すかは疑問であると言わざるを得ない。現に、Wの証言(第三回)及びノート二冊によれば、同人は、野球賭博の資金提供者であるH兄弟に対して清算の結果を報告するため、毎日の各試合ごとの賭客の申込み状況、ハンディ、実際の試合結果等をノートに詳細に記載していたことが認められるのであって、Tの場合も、賭博の結果を資金提供を全面的に依存したとされる被告人に報告するのであれば、Wの場合と同様、ある程度詳細な報告をする必要があったのではないかと思われる。

(四) 被告人の資金援助の方法について

この点も、Tの供述にのみ現れている点であるが、Tは、60・2・18検面において、実際に負け金については全額被告人に出してもらっていたが、勝ち金については、一〇〇万円未満の端数は被告人に言ってTの手持ち金として領得していた旨供述している。この部分は、前記(二)で引用した、勝ち金もTが全額を被告人に供出し、その中から最終的に利益が上がれば御苦労賃の形でもらうつもりだったという供述と明らかに矛盾しているのであって、Tがこういう心境であったか極めて疑わしい。しかも、負け金については被告人が全額負担しながら、勝ち金のうち一〇〇万円未満の金をTが領得してよいというのは、被告人にとって著しく不利な取り決めであって、ただ被告人に一言言うだけでTが一〇〇万円未満の金を領得できたというのは、不合理な内容であると言わざるを得ない。

そもそも、Tが昭和五九年に野球賭博を行った主たる目的は、同人の供述(60・2・18検面等)によれば、X組の資金稼ぎのためであって、Tが利益を得るためではないのであるから、野球賭博によって得られる利益は全て被告人に供出するのが合目的的であり、当然ではないかと思われる。しかるに、被告人が負け金を全額負担しながら勝ち金のうち一〇〇万円を超える部分しか得られないということは、被告人にとって甚だ利益の薄い取り決めであって、組の資金稼ぎという目的とは相反する結果をもたらしかねないと言わざるを得ない。また、勝ち金のうち一〇〇万円未満の金をTが領得してよいというのであれば、負け金についても被告人が一〇〇万円単位で援助するのが合理的であり、端下金についていちいち組長の被告人を煩わせるのは却って不合理ではないかと思われる。

更に、Tが負け金について全額被告人の援助を仰いでいたとすれば、被告人との現金の授受の状況を、その際の被告人の言動等を交えて、もう少し具体的に記憶していてもよいと思われるのに、七月六日の記憶が鮮明であるのに引き換え、それ以外の時の記憶が全く曖昧であるのは、不可解であると言わざるを得ない。確かに、七月六日は最後の清算金授受のあった日であり、しかもVが逮捕された日であるから、鮮明な記憶があるのは当然としても、それ以外に負け金を被告人に出してもらったのが、「四月七日ころ三〇〇万円、四月一五日ころ五〇〇万円、五月一一日ころ四〇〇万円」(60・3・11検面)というだけで、Tが被告人から直接交付を受けたかどうか、これをTが直接Vらに届けたかどうか、といった点を含めて、その際の具体的状況を全く供述していないのは、不自然と言うほかはない。というのは、Tが被告人に負け金を全面的に出してもらっていたというのであれば、Tが野球賭博を行っていた期間からして、その回数は三回程度にとどまるものではないと考えられ、その場の遣り取りを含めて印象深い経験が何度かあっておかしくないと思われるからである。

特に、Tは、60・3・11検面において、野球賭博を始める際の被告人との当初の話し合いでは、被告人に負け金の面倒を見てもらうということであったのが、春の高校野球で負けが続いたため、被告人に勝ち金の全額を出すようになった旨供述しているが、このことは、利益分配の方法の変更であって、重要な取り決めであるにもかかわらず、いつ、どこで、どのような話し合いが行われたかについて、全く触れるところがない。このようなことがあったとすれば、Tにおいて具体的な記憶が残っているはずであり、これについての具体的供述がないということは、極わめて不自然であると言わざるを得ない。

検察官は、Tが七月六日以外にも前記のように被告人との現金の授受を記憶し、しかも、それが春の選抜高校野球やプロ野球の公式戦の結果とも符合していることから、供述の信用性が高い旨主張するが、四月七日ほか二回にわたる現金の授受を客観的に裏付ける証拠はないうえ、高校野球やプロ野球の結果は、捜査機関にとって既知の事柄であって、何ら秘密性はなく、供述の信用性を高めるものではないと言うべきである(しかも、四月一五日ころの金額には、前記のとおり変遷があり、捜査官による誘導があったものと推認することができる。)。

なお、Tは、被告人の出した資金と得た利益との差額がプラスマイナスゼロ位に終わっていると思う旨供述している(60・3・13検面)。しかし、同じ調書の中で、Tは、比較的詳細に他からの借金の額を供述しているのであって、組長に対する貸し借りも、少なくともそれと同程度に記憶に残り易いと思われるのに、プラスマイナスゼロ位というのは、いかにも予定調和的であるとの感を免れず、不自然であると言わざるを得ない。

更に、七月六日の時点で、Tは、Wに対しては約二〇〇万円、Vに対しては約三〇〇万円、合計約五〇〇万円野球賭博で勝っていた(60・3・13検面第一)のであれば、被告人に七六万八、六〇〇円程度の負け金を出してもらわなければならない必然性もなく、前記の一〇〇万円未満の勝ち金はTが取得していいとする取り決めは存在理由に乏しいものと言うべきである。

(五) 清算日の前日の賭博の精算金の報告について

先に見たように、Tは、被告人に対し、野球賭博の負け金であることを信用してもらうため、清算日の前日に清算金の計算が出来てから、被告人にその金額を報告しており、七月六日の清算日についても、前日の午後一〇時ころ、被告人に野球賭博の清算金の計算結果を報告した旨供述しており(60・3・11検面)、また、Uも、七月六日にVがTに七六万八、六〇〇円の勝ち金があることは、前の晩に集計して知っていた旨供述している(60・2・18検面)。弁護人らは、野球賭博の清算金を確定するには、プロ野球の試合の終了後、清算金の額を算出したうえ、相手方と確認し合う必要があるから、到底午後一〇時ころまでにこれを終えることはできないと主張するので、この点について検討する。

司法警察員作成の60・3・13報によれば、昭和五九年七月五日は、プロ野球のナイターが六試合行われており、パ・リーグでは西武球場の西武対ロッテ戦が午後九時四四分までかかったのが最長であり、セ・リーグでは試合終了時間は不明であるが、甲子園球場での阪神対横浜大洋戦が試合時間三時間二四分で最長となっている(この試合の開始時刻がパ・リーグの三試合と同様午後六時三〇分であったとすれば、終了時刻は午後九時五四分となり、午後六時一五分の開始であったとしても、終了時刻は午後九時三九分となる。)ことが認められる。これによれば、当日のプロ野球の全試合が終了した時刻は、早くても午後九時四四分であるところ、プロ野球の全試合がテレビ又はラジオで中継されることはないから、一般の視聴者にとって、全試合終了後直ちにその結果は判明せず、テレビ又はラジオのニュースによって初めて知り得るのが実情であることからすると、それからハンディの加減等の計算をし、相手方との清算額の確認を行っておれば、午後一〇時ころに清算金の額が確定することは、事実上不可能であったと言わざるを得ない。

証人Z子は、Vの野球賭博の清算金の計算等を手伝っていたところ、清算金を計算した後必ず相手方と清算金の額を確認し合っており、毎日午後一時か一時半ころ、ハンディの点を電話連絡する際に、併せて前日の清算金の計算結果を確認し合っていた旨証言する(第一五回)。この証言は、実際の経験に基づくものであり、内容も自然であって、充分信用することができるものである。そして、右証言によれば、野球賭博の清算金の計算が、ハンディを加減したうえ、一点以下の歩の計算になった場合には更に細かい計算を要し、戻り歩の計算も必要となることから、相手方との計算結果の照合が極めて重要であると理解することができる。これに対し、Tの前記供述は、野球賭博の実態にそぐわず、信用性が乏しいものと言わざるを得ないのであって、野球賭博の実情に疎い取調官の誘導が働いたのではないかという疑いが強い。

(六) Uが清算金を取りに行っていたことについて

Tは、前記のとおり、被告人に出してもらう清算金の額が一〇〇万円以上のときは自ら取りに行っていたが、一〇〇万円未満のときはUに取りに行ってもらっていた旨供述する(60・2・18検面)。しかし、一〇〇万円以上とそれ以下とで扱いを区別しなければならない合理的理由は見出せないのであって、調書上も、右の区別の理由について何も触れられていない。また、清算金が一〇〇万円未満のときはUに取りに行ってもらっていたとすれば、それは当然七月六日一回限りのことではなく、何回も行われていたはずであるが、Tの調書には、右以外にUを取りに行かせた時の状況について具体的供述はない。更に、このようなことが実際に行われておれば、当然もう一方の当事者であるUの供述にも現れていなければならないが、既に見たように、この点は、Uの調書によっても何ら裏付けられていない。そもそも、負け金が一〇〇万円未満のときはUに取りに行ってもらっていたというのは、早くからUが七月六日にYにVに対する野球賭博の負け金を持参させたことを認めていたことから(前記2(二)(2)参照)、当日UがYに右金員を持参させたことの根拠を説明するため、取調官が考え出した理屈ではないかという疑いが強い。

(七) 裏工作の資金を被告人に出してもらったことについて

Vに対するいわゆる裏工作の資金を被告人に出してもらった時の状況について、Tは、七月六日の午後五時三〇分ころ、Uと組事務所に被告人を訪ね、Yに持参させた現金が警察の手に渡ったらしいので、再度七六万八、六〇〇円の現金を出してくれるよう被告人に依頼したところ、被告人は「『そういうことなら付けてやらにゃいけんのお、出してやるから確実に付けてやれ、詐欺と言われても後で困るからのお』と言い、机の上に置いてあったオストリッチの黒色の財布から一万円札を出して、手で数え、七七万円を裸銭で渡してくれました。」と供述しており(60・2・27検面)、Uも、概ねこれと符合する供述をしている(60・3・11検面)。この点について、Tは、60・2・23員面において、「机の上に置いていた財布、オーストリッチ、黒色、二〇センチ×一〇センチ大」と言い、その時の状況を見取り図に書いて説明し、更に、60・3・13員面において、被告人方で押収された黒革財布一個を示され、これが被告人方で被告人に裏工作のため現金七七万円を出してもらった時の財布である旨供述しており、また、Uも、60・3・4員面において、Tと同様の見取り図を書いて、被告人が財布から現金を取り出した時の状況を説明し、60・3・15員面において、「親分が現金を出したその財布は、二ツ折り財布で色はたしか黒色であったと思います。」と言い、右黒革財布を示されて、色や形などからして、この財布であったと思う旨供述している。

この点に関し、司法巡査作成の60・3・7捜索差押調書によれば、右財布は、同日被告人方で押収されたものであることが認められるのであって、右の経緯からすれば、右財布は、Tらの供述によって初めてその存在が捜査官に知られ、捜索差押の結果発見されたかのようである。従って、被告人が右財布から現金を取り出したとの供述は、それが事実であることが裏付けられれば、いわゆる秘密の暴露に当たるものであって、Tらの供述の信用性は著しく高まるものと言うことができる。

しかし、証人Iの証言(第二三回)、被告人の当公判廷における供述(第二三回)、取り寄せノート写し及び納品書写しによれば、右財布は、昭和五九年一二月三日に被告人の愛人であるJ子が同年一一月一日に発行された新一万円札用の物として、岡山高島屋に特別注文し、同年一二月二三日に同女に引き渡されたものであることが認められる。そうすると、右財布は、被告人が現金七七万円を出したとされる七月六日の時点には未だ存在しなかったものであり、特に、Tは、右財布が出来上がってJ子に引き渡された一二月二三日当時既に勾留されており、供述の録取された翌年二月二七日まで引き続き接見等禁止付きで勾留されていた(前記二1(一)参照)のであるから、そもそも右供述の時点で右財布を見たことはもとより、その機会すらなかったと認められるのであって、Tらの前記供述は、秘密の暴露に当たらないことはもとより、その内容が具体的であるのとは裏腹に、その信用性が極めて疑わしいことにならざるを得ない。

また、被告人は、当公判廷において、七月六日は被告人が本家X組の組長に就任してから初めての組総会の行われた日であり、被告人は、当日午後二時四分発の新幹線で岡山を発ち、姫路に向かっており、午後五時三〇分ころはまだ姫路にいて、岡山には居なかった旨供述し(第二一回)、弁護人は、その裏付けとして、岡山X組事務所の黒板の写った写真を提出する。確かに、右写真にはX組の毎月の行事予定が書かれた黒板が写っており、そこには六日の欄に本部総会と書かれていることが認められるが、これによって、昭和五九年七月六日当時の被告人の行動が証明されたものとは言い難く、被告人に当日のアリバイがあることが証明されたものと認めることはできない。しかし、前記一5のとおり、被告人は、当日午前中、散髪のためYの運転する自動車で岡山市内の理髪店に出かけていることが認められるのであって、これが、被告人の供述するとおり、当日午後姫路で行われる組総会に備えたものと解することもできるから、これらの事実を併せ考慮すると、被告人には当夜のアリバイの成立する可能性もあると言うべきである。そして、アリバイの証明がないとは言え、その成立の可能性があるということは、前記の被告人の財布に関する事実と相まって、Tらの右供述の信用性を著しく減殺するものであることは確かである。

(八) 裏工作の内容について

Tは60・2・27検面において、Uは60・3・11検面においてそれぞれ、七月六日の午後四時ころ、V方に連絡が取れ、V夫婦が警察に連れて行かれたまままだ戻って来ないことを知り、Uが、午前中V方に持って行った金を手形の金だとして口封じをすればよいと発案し、更に、口封じの工作をするなら再度清算金を届けた方が信用するのではないかと言った旨供述している。しかし、VはTの野球賭博の賭客であり、Z子は同人の妻として野球賭博を手伝っていた者であるから、口封じのためだけであれば、敢えて約七七万円もの現金を出損しなくても、口頭で事情を説明するだけでも充分目的を達し得たのではないかという疑問が生ずる。

更に、右の裏工作の内容は、午前中V方に届けた現金七六万九、〇〇〇円と同額の現金を再度届けることにより、Vらに午前中届けた現金が野球賭博の金ではなく手形の金であると信用させるというものであるが、最初に届けた現金と再度届けた現金との間には一、〇〇〇円の開きがあり、同額の現金を届けたことになっておらず、そもそも裏工作になっていないと言わざるを得ない。確かに、TがV方に届けた現金が正しく七七万円であったかという点については、後に見るように疑問がないとは言えないが、Tらは、前記のとおり、被告人に出してもらった現金も七七万円であったとの供述もしているのであって、供述自体が矛盾を含んでいることは明らかである。この点については、Z子が七月六日夜Tが持参した現金が七七万円であると供述していたため(この供述が現れるのは、当裁判所で取調べ済みの証拠に関する限り、60・3・13検面であるが、同女の証言(第一五回)によれば、既に、60・2・4員面に現れているものと認められる。)、これを知った取調官が同趣旨の供述を引き出そうとTやUを誘導したのではないかという疑いが残る。

(九) 「F」とVの同一性について

Tは、Vからは「F」、Wからは「G」とそれぞれ暗号名で野球賭博の申込みを受けており、被告人にも、「Fが何円の勝ちとか負け、Gが何円の勝ちとか負けで、差引いた金額が何円の勝ちとか負けとなる」と報告していた旨供述しており(60・3・11検面)、右調書を見る限り、被告人が「F」がVで、「G」がWのことであることをTから知らされていたことは認められない。ちなみに、Tは、60・2・18検面において、七月五日に被告人に清算金の計算結果を報告して、現金を出してくれるよう頼んだ際、被告人に電話で「また負けたので、明日の朝Uに取りに行かせますので、七六万八、六〇〇円を出して下さい。」と言った旨供述しており(60・2・27検面及び60・3・11検面も同旨)、Vに右現金を交付すると言ったとは供述していない。また、Uも、60・2・18検面において、Tの依頼を受けて七月六日朝組事務所に赴いた際、被告人に「実はTさんに頼まれて来たんですが、七六万八、六〇〇円お願いします」と言った旨供述しており、Vに右現金を交付すると言ったとは供述していない。しかしながら、Yは、当日の朝組事務所でUから現金を届けるよう頼まれ、被告人に「ええんですか」と尋ねたところ、被告人が「持って行ったらんか」と言ったので、その指示に従って封筒をV方に届けた旨供述し(60・2・19検面)、更に、組事務所に戻った直後、被告人から「金はVに渡したんかい」と尋ねられ、「Vさんがおられず、留守番の人に渡しました」と答えたところ、被告人から「お前何でことづかった物を本人に直接渡さなんだんや、抜けた事をしやがって」と言って叱られた旨供述している(60・2・28検面)のであって、これからすると、被告人は、Yが現金をV方に届けるようUに頼まれたことを知っていたことが前提となっているものと見ることができる。そうだとすると、被告人は、Tからも、Uからも、「F」がVのことだということを知らされていないにもかかわらず、野球賭博の賭客とは知らないはずのVにYをして清算金を届けたことになり、不合理な内容であることは明らかである。仮に、被告人が「F」がVであることを知っていたのならば、当然調書上説明があって然るべきであるが、そのような説明は、Tらの供述のどこにも見当たらない。

(一〇) 昭和五七、五八年度の野球賭博について

Tは、60・2・18検面において、X組の野球賭博は、昭和五七年度はTが、翌五八年度はUが、それぞれ被告人の資金援助のもとに開張し、翌五九年度はTが開張することになった旨供述している。検察官は、昭和五七、五八年度の野球賭博は、本件と直接関連性がなく、捜査官において創作する必要性のない事柄であるから、これに関する供述は信用性が高いと主張する。しかし、右検面においても、昭和五七、五八年度の野球賭博の状況については、被告人の資金援助の状況を含めて、具体的供述が欠けているうえ、TがUから組としての野球賭博を引き継いだのであれば、賭客も当然Uから引き継ぐことになると思われるのに、同人の野球賭博の賭客をTが引き継いだことはなく、TがUの賭客でないVとWを新たに開拓したことになっているのである。してみると、昭和五九年のTの行った野球賭博が組としての野球賭博で、前年にUが行ったそれを引き継いだものであるという供述内容自体の合理性に疑問があり、右供述のゆえに前記検面の信用性が高いと見ることはできない。

昭和五七年にTが、翌五八年にUが、翌五九年にTがそれぞれ野球賭博を行ったことは、関係証拠により認められるところであるが、これらが被告人の資金援助のもとにX組の資金稼ぎのために行われたと見るには、具体的事実の裏付けを欠いており、結局、このような見方自体、捜査官の机上の議論の域を出ないものと言わざるを得ない。また、昭和五七年、五八年度の野球賭博も、被告人の資金援助のもとに行われたものと見る限り、同じ態様で行れたとされる昭和五九年度の野球賭博の背景事実として関連性を有することは明らかであって、捜査官が右のような関連性を念頭に置いてTを誘導したことも充分考えられるところである。

(一一) 小括

以上見てきたとおり、T、U及びYの捜査段階での供述には、内容が殊更に曖昧であったり、また、内容の不合理なものが少なくなく、その真実性には多大の疑問があると言うべきである。

なお、検察官は、Tが60・1・28員面において、七月六日朝V方に野球賭博の清算金を届けたのがYであること、及び同日夜TがV方に同額の現金を届けたことをそれぞれ供述しているが、これらの事柄は、当時捜査官に知られていなかったから、Tがこれらの点の供述はいわゆる秘密の暴露に当たり、高度の信用性を有するとも主張する。しかし、これらの事柄を捜査官が知らなかったとしても、同日の朝V方に現金を届けた者がYであることをTも当日既に知っていたこと、及び同日夜TがV方に現金を届けたことは、いずれもTが証言する(第六回)ところであり、事実であると認められるところ、検察官の主張する事柄は、いずれもこれらの事実に対し、前者については野球賭博の清算金と、後者については裏工作の現金と、それぞれ捜査官の立場から意味付けをしたに過ぎず、独立の秘密性ないし信用性を認めるに足りる事柄ではないと言うべきである。そして、TやUの供述に秘密の暴露と言えるものがなく、信用性に乏しいことは、既に見たとおりである。

結局、これらの信用性の乏しい供述がされたのは、Tらが殊更に虚偽の供述を織りまぜて捜査官の目を欺こうとしたためであると見ることは困難であり、既に各所で見たとおり、Tらにとって記憶にないなどのため、取調官の誘導されるままに供述したのではないかと見るのが相当である。しかして、これらの供述を拠り所とする検察官の主張は、至る所で破綻を来たしていることが明らかであって、右各供述をもってしては、到底被告人とTとの共謀の事実を認定することができないものと言わざるを得ない。

四 筆跡鑑定等の証拠の検討

1 総説

七月六日の午前一〇時ころ、X組組員のYがV方に届けた現金七六万九、〇〇〇円が、当時同所を捜索中の警察官に押収されたことは、前記一6で認定したとおりである。検察官は、右現金が野球賭博の清算金であり、その帯封に記されている「76万8600円」という数字は、被告人の筆跡によるものであって、被告人がこの数字を書いたことは、被告人がTと共謀して野球賭博を行っていたことの決定的証拠であると主張する。そこで、次に、検察官の援用する子海六郎作成の回答書及び同人の証言(第一四回)(以下、両者を合わせて「子海鑑定」という。)並びに右帯封について検討する。

2 子海鑑定について

(一) 子海鑑定の概要

子海鑑定の鑑定事項は、「1 右帯封(資料(1))に記載された76万8600円の筆跡と被告人自筆の差入申込書六枚(資料(2))の措置欄の年月日の筆跡は同一か。2 資料(1)の筆跡と被告人自筆の処分結果通知書(資料(3))の生年月日の筆跡は同一か。3 資料(1)の筆跡とUの自筆したもの三枚(資料(4))及びTの自筆したもの三枚(資料(5))の各筆跡は同一か。」などというものである。

子海鑑定は、鑑定事項1に関し、「『7』字について、資料(1)と資料(2)とは、第一画が左上からやや右下に傾斜して運筆が短めであり、第二画が起筆から転折部までを左下から右上がりに送筆しており、転折から終筆までを右上から左下に長大に送筆しており、その運筆傾斜などの傾斜角に類似性が見られるなど共通点がある。『6』字について、資料(2)に見られる初筆部のうつたて状のものは資料(1)に見られないが、起筆してから回転部までの右上から左下への送筆がやや湾曲しており、回転部の丸が大きめであるなど共通点がある。『8』字について、運筆の回転方向が同じであり、下部回転部が右に傾斜した形で縦長に細く小さく運筆しており、上部回転部が右上に大きく張り出した形態の運筆であり、終筆が左下方へ筆を抜いているなど共通点がある。以上のほか、資料(1)が『7686』の字を大きく運筆しているのに対し、『万00円』の字を小さく運筆しているところ、資料(2)には資料(1)と同じ字行構成の運筆はないが、『0』の字が他の数字に比較し小さい運筆であることなどが共通している。なお、個性的な相違点は検出されなかった。」とし、鑑定事項2に関し、「『6、8』の字については、前項と同様の運筆が、資料(1)と資料(3)に見られるほか、資料(3)の住所欄に『7』の字が見られるが、これも前項と同様の運筆が見られ、共通している。」などとしたうえ、「資料(1)に記載さた76万8600円の筆跡と資料(2)の措置欄の被告人自筆の年月日の筆跡は同一と推定される。資料(1)の筆跡と資料(3)の自書欄の生年月日の筆跡は同一と推定される。資料(1)の筆跡と資料(4)及び資料(5)の各筆跡は共に相違する。」との鑑定結果を導き出している。

(二) 子海鑑定の評価

しかし、子海鑑定の鑑定事項及び鑑定結果には、以下のような疑問がある。

まず、子海鑑定の鑑定事項においては、対照文書として、被告人自筆の資料(2)及び資料(3)とU自筆の資料(4)並びにT自筆の資料(5)が用いられている。一般に、筆跡鑑定には、鑑定資料の執筆者が特定多数人の中に存在することが前提とされている場合(「限定的鑑定」)とそのように前提されていない場合(「無限的鑑定」)とがあり、子海鑑定は、手法としては、後者に属すると思われるけれども、対照文書として被告人、U及びTの三名のみの筆跡が用いられていること自体、あたかも限定的鑑定のように、この三名の中に資料(1)の執筆者がいるのではないかという予断を鑑定者に与えた恐れがないとは言えない。

また、筆跡鑑定に当たっては、鑑定資料と同じ字が対照文書の中に出来るだけ多く存在することが、対照文書の執筆者の筆跡の常同性を見極めるうえで重要であるとされている。子海鑑定の場合、なるほど「6」の字は八回、「8」の字は五回それぞれ対照文書である資料(2)及び(3)の中に現れているが、「7」の字はわずか一回しか現れていないのであって、「7」の字について、右対照文書の筆跡をもって、被告人の筆跡の特徴が現れているとして資料(1)との同一性を論ずることは、いささか早計であると言わざるを得ない。

更に、筆跡鑑定に当たっては、鑑定資料と対照文書が出来るだけ同じ条件の下に書かれたものであることが重要であり、特に、文字の大きさ、紙面の大きさ、筆記具の種類、紙の質、文字が丁寧に書かれたものかどうかといった点が重要であるとされている。子海鑑定の場合、筆記具の種類が資料(2)ではボールペン、資料(3)では硬筆であり、資料(1)ではボールペンと推定されるから、この点については格別問題がなく、紙の質も各資料で異なるものの、この程度の相違はやむを得ないものと考えられる。しかし、資料(1)は、幅一・九五センチメートルの帯封のほぼ上半分に書かれたものであるのに対し、資料(2)は、紙面がB5版横の差入申込書の下部の措置欄の年月日欄であり、資料(3)も、資料(2)とほぼ同程度の大きさの紙面に書かれたものであるという点で、紙面及び文字の大きさが相当異なるものと言わざるを得ない。また、資料(1)は、幅の狭い帯封に書かれていることから、その幅に収めるためには勢い丁寧な字とならざるを得ないのに対し、資料(2)は、紙面にそのような制約がないから、のびのびと書くことができ、差入申込書の下部の「上記の差入を受取りました。」という措置欄に書かれたものであることからしても、比較的ぞんざいに書かれたものと見ることができる。従って、資料(1)と資料(2)及び(3)とは、字の書かれた条件が相当異なり、後二者に見られる特徴が前者にも見られるからと言って、直ちに筆跡の同一性を認めることは、早計に過ぎると言うべきである。

更に、子海鑑定においては、漢字や平仮名ではなく、算用数字が筆跡鑑定の対象とされていることにも留意する必要がある。というのは、文字、特に漢字においては、誤字や筆順などに執筆者の個性が現れ易く、また、模倣が比較的困難であるのに対し、算用数字においては、そのような個性は現れにくく、また、筆跡を模倣することもそれほど困難ではないからである。従って、鑑定資料と対照文書との間に共通点が認められるとしても、漢字の場合ほど執筆者の同一性を識別する効力は強くないと見るべきである。

次に、子海鑑定の内容を見るに、同鑑定が資料(1)ないし(3)の特徴として指摘する点は、概ね首肯することができる。ただし、資料(2)及び(3)の「6」の字については、対照文書中に現れる八字のうち七字までが同鑑定のいう「うつたて」状(入筆の際の鉤状の形状)を顕著に示しており、被告人の筆跡の特徴を示すものと言うことができるが、資料(1)の二字にはそれは見られない。もっとも、証人子海六郎は、うち一字に「うつたて」ではないがそれに近いものが見られると証言するが、いずれにしても、資料(2)及び(3)の顕著な特徴は見られないと言うべきである。また、「0」の字が他の字に比べて小さく書かれるということは、一般人の筆跡にも見られる特徴であり、何ら資料(2)及び(3)に顕著な特徴と見ることはできないから、このことをもって筆跡の同一性の根拠とすることは、適当でないと言うべきである。

以上のとおり、鑑定資料の帯封の数字の筆跡と被告人の筆跡に似ている点があり、両者の間に筆跡の同一性がないと言えないことは確かである。しかしながら、もともと筆跡は、指紋とは異なり、同一性を識別する効力が相対的なものにとどまるのであるから、これを過大に評価することは許されない性質のものである。しかも、子海鑑定には、前記のとおり、その鑑定事項の設定、対照文書中の文字の豊富さ、文字や紙面の大きさ、算用数字の鑑定対象としての適格性等の問題点があり、また、個性的相違と思われる点を軽視するなど、内容にも疑問を容れる余地があるのであって、筆跡に類似性があるといっても、それは相当限定的に考えるべきものである。それゆえ、資料(1)の筆跡と資料(2)及び(3)の筆跡は同一と推定されるという同鑑定の鑑定結果には、飛躍があると言うべきである。このように、子海鑑定には、一定の証拠価値を認めることはできるとしても、これにより、帯封の筆跡と被告人の筆跡との同一性が証明されたものとは到底見ることができない。

3 帯封について

子海鑑定を被告人の共謀事実を裏付ける証拠と評価するためには、七月六日の時点で帯封に「76万8600円」の字が記されていたことが、不可欠の前提となると言うべきである。しかるに、この点については、以下に見るような疑問がある。

証人丁岡四郎は、七月六日にV方を捜索中、YがV方を訪れ、「X組のYですが、いつもの分を持って来ました。」と言って、現金入り封筒を持参したので受け取り、Z子にこれをいったん渡した後、同女から任意提出を受けたが、その時点で既に、帯封には「76万8600円」の字が記載されていた旨証言する(第一二、一三回)。しかしながら、もし右証言のとおり帯封に右数字が記載されていたのであれば、その意味するところについて、Z子やYを取調べるのが捜査官として当然であると思われる。しかるに、その後ほどなく録取されたZ子の調書(59・7・26検面、59・8・2検面)には、帯封についての供述はもとより、Yが届けた現金についての供述が全く現れていない。殊に、後者の調書においては、七月三日から三日間の清算金等を計算したメモ三枚を示して取調べが行われているのであるから、三日間の清算金の額と帯封に記載された数字との関係について追及があって然るべきである。また、Yが、丁岡証言のとおり、「X組のY」と名乗っていたとすれば、直ちに同人に対して取調べが行われてよいと思われるのに、翌年二月七日の逮捕に至るまで全く取調べが行われていないのである。このような捜査経過に照らすと、右丁岡証言は、Yが「X組のY」と名乗った点はもとより、帯封に数字が記載されていたとの点についても、にわかに信用し難いものと言わねばならない。この点について、証人Z子は、Vの逮捕後ほどなく同女が取調べを受けた際、七月六日にV方に届けられた現金について、手形の金であると弁解したところ、警察の方でそれ以上追及されなかった旨証言する(第一五回)のであるが、この証言は、前記の捜査経過とも符合し、信用性が高いと言うべきである。このように、その後の捜査の経過には、むしろ七月六日の時点で帯封に数字が記載されていたこととはそごするのではないかと思われる点が見受けられるのである。

更に、子海鑑定は、岡山西警察署長の60・2・28鑑定嘱託に基づいて、同年三月一日から同月七日までの間に行われたものであるが、昭和五九年七月六日当時既に帯封に右数字が記載されていたのであれば、翌年三月まで待たなくとも、筆跡鑑定を行えたはずであって、対照文書の点も、被告人には前科六犯があり、直近の前科も昭和五七年四月にあるから、それまでの逮捕時の筆跡等を利用することが可能であったと思われる。それにもかかわらず、昭和五九年七月六日に帯封が領置されてから翌年二月まで筆跡鑑定が行われなかったことには、疑問が残ると言わざるを得ない。

また、被告人が帯封に右数字を記載したのであれば、右数字は現金の額七六万九、〇〇〇円と一致していないのであるから、被告人から使者のYに何らかの指示があって然るべきであるが、Yの調書にそのような指示があったとの供述は全く現れていない。仮に、右現金が野球賭博の清算金であり、野球賭博においては清算金が四捨五入によって処理されていたとしても(このような処理の妥当性については、後に検討する。)、Yはそれまでに野球賭博の清算金を届けたことがない(少なくとも、それまでに同人が野球賭博の清算金を届けたとの証拠は存しない。)のであるから、同人に対して説明がされるべきことは同様である。

更に、右現金が野球賭博の清算金であるとすれば、何故に金額が封筒の表ではなく、帯封に書かれたのか、という点が疑問として残る。すなわち、Z子の証言(第一五回)にれば、Tが野球賭博の清算金をVに交付する際には、現金入りの封筒の表に「F」という宛名とともに清算金の額が書かれていたことが認められ、かつ、そうすることは、封筒には数字を書き易く、受け取った者にとっても見易いことから、自然な行為であると思われる。これに対し、帯封に全額を書くということは、帯封の幅が狭く数字を書きにくいと思われるうえ、前記の各証言によってもTが過去にそうしたことがあるとは認められないのであって、不自然な行為と言うべきである。そうすると、七月六日に何故に殊更帯封に数字が書かれたのか、合理的理由は見出し難いのであって(右現金の入った封筒に数字が書かれていたことは、証拠上認められない。)疑問が残ると言うべきである。

加えて、右数字が被告人によって書かれたものであるとすれば、七月六日の場合について、或いはそれ以前から、被告人に対してTらから帯封等に清算金の額を記入するよう要請があってもよいと思われるのであって、Tらの調書にこの点が当然現われてよいと思われる。しかるに、TやUらの調書にはこの点が何故か全く触れられていないのであって、奇異の感を否めない。しかも、当初から帯封に数字が記入されていたのであれば、TやUらに示して供述を求めることがあってもよさそうに思われるところ、Tらの検面には、帯封に関して何ら供述がなく、また、員面においては、T(60・3・12第一)もU(60・3・15)も、筆跡鑑定の結果が出た後になって、初めて帯封を示されたうえ、それぞれその筆跡が被告人のものと思う旨の供述をしているのであって、疑念が深まるものと言わざるを得ない。

結局、七月六日当時既に帯封に右数字が記載されていたかどうかについて、真相は不明であると言わざるを得ない。従って、子海鑑定にそれなりの証明力が認められるとは言え、そもそも鑑定の前提事実に疑問がある以上、右鑑定を被告人の共謀事実を裏付ける証拠と見ること自体に疑問が存すると言わねばならない。

五 客観的事実の検討

1 総説

七月六日の出来事については、それ以外の時とは異なり、前記一で認定したとおり、動かし難い事実がいくつか存する。その評価をめぐって、検察官と弁護人との間で鋭い見解の対立が見られるが、以下、観点を変えて、これらの事実ごとに検討を加えることとする。

2 七月六日朝V方に届けられた現金の趣旨について

(一) 総説

七月六日午前一〇時ころ、YがV方に現金七六万九、〇〇〇円の入った封筒を届けたことは、前記一6で認定したとおりであるが、この金額が七月三日から五日までの三日間のVのTに対する野球賭博の勝ち金七六万八、六〇〇円と近似していることは疑いがなく、Tらの捜査段階での供述以外にも、右現金が野球賭博の清算金であるとする見方に沿うかのような証拠も存する。そこで、以下、右現金の趣旨について検討を加える。

(二) 野球賭博の清算金の端数の処理について

Yが持参した現金の額七六万九、〇〇〇円は、清算金の額七六万八、六〇〇円の一、〇〇〇未満を切り上げ若しくは四捨五入した金額であるが、TとV、Wとの野球賭博の清算金の授受に当たって、四捨五入等の処理が行われていたかどうかを、以下検討する。

関係各証拠によれば、TとV、Wとの野球賭博においては、賭金は一口一万円であったが、賭客の予想が当たった場合の胴元の支払いは賭金額の九割であり、一点差の試合や引き分けの場合には、ハンディの点に応じて勝ち負けの金額に更に割合計算をしなければならない場合(いわゆる分勝ち、分負け)があり、また、いわゆる戻り歩として、勝敗に関係なく賭金額(分勝ち又は分負けの場合には、賭金額にハンディの割合を乗じた額)の一分を胴元が支払うことになっていたことが認められる。そうすると、結果如何によっては、一〇〇円単位或いは一〇円単位の細かい勝負になることが最初から予定されているのであって、一、〇〇〇円以下を四捨五入等の処理をするということは、大雑把に過ぎるとの感を否めない。また、VやWは、いわゆる中間胴であって、それぞれ数名の賭客から申込みを受け、これらの賭客との間でも清算金の計算を行っていたから、四捨五入計算をするとこれらの賭客との清算金の計算が切り上げ又は切り下げで区々に分かれ、Tとの間でした計算と合わなくなる事態も生じ得るのであって、四捨五入等の処理は一見合理的に見えて、実際には計算を徒に煩雑化するものと言わざるを得ない。現に、証人Z子は、夫の手伝いで野球賭博の清算金の計算等に従事していたが、清算金の何百何十円という端数を切り上げたり切り下げたりすることはなく、計算したとおりの額を授受していた旨証言しており(第一五回)、右証言は、充分信用することができるものと言うべきである。従って、清算金を四捨五入していた旨のTの供述(60・3・12員面第一)が信用性に欠けることは、以上の考察からも明らかである(ちなみに、検面には、この員面に相当する内容の供述もない。)。

また、七月六日の清算金を被告人に出してもらうに当たっては、Tも(60・2・18検面)Uも(60・2・18検面)、共に七六万八、六〇〇円の出捐を依頼した旨供述しているのであって、七六万九、〇〇〇円の出捐を被告人に依頼したとする証拠がないことにも留意すべきである。仮に、被告人がTらから右各検面のような依頼を受ければ、特段の事情がない限り、右金額の現金を用意するものと考えられ、特に、被告人の場合、組事務所に出入りする組員から小銭を借りるなどして、右の額どおりの現金を用意することも容易であったと思われるのである。

なお、前記のとおり、Yは、被告人から問題の現金を言付けられた際、差額の処理について指示を受けたことは、調書上何ら窺えないのであるが、野球賭博の清算金と右現金の額との間に開きがある以上、清算金の四捨五入で処理されていたか否かを問わず、Yに対して被告人から当然指示があるべきであり、このことが現れていないことを見ても、Yの調書は、信用性に乏しいと言わざるを得ない。

(三) 清算金授受の時刻について

Yが七月六日の午前一〇時ころV方に届けた現金が野球賭博の清算金であったとすれば、そのような時刻に清算金を授受することが果たして可能であったかどうかを検討する必要がある。

前記のとおり、野球賭博の清算金の計算は複雑であって、一般に、プロ野球の試合終了後、午後一〇時ころに計算が終了することは、事実上不可能であると言わざるを得ない。もっとも、ハンディの計算や賭客との確認などの作業を精力的に行えば、その日の深夜に清算金の計算を終了することも不可能ではないと考えられる。しかし、前掲のZ子の証言によれば、Tとの間では、野球賭博の清算金の計算結果の確認は、必ず翌日の午後その日の試合のハンディの点を連絡する際に行っており、Tとの清算金の授受も、通常午後一時三〇分以降に行っていたことが認められる。そして、七月六日に限って清算金の計算結果の確認や清算金の授受を午前一〇時という早い時刻に行わなければならなかった事情は何ら認められない。現に、Z子の証言によれば、七月六日にYが現金を持参した時点では、まだTとの清算金の計算結果の確認が行われていなかったことが認められるのであって、午前一〇時ころに野球賭博の清算金を授受することは、不可能ではないにしても、甚だ現実性の乏しいものと言わざるを得ない。

なお、Z子は、60・3・12検面において、いったんは、七月六日に自宅を警察が捜索中届けられた現金が野球賭博の金に間違いない旨供述しているが、同女は、右検面において、右現金の趣旨について「私が一〇〇パーセントその金を野球賭博の清算金であると思ったように書いてありますが、その時の私の正直な気持ちとしては、その金が私の所の野球の勝ち金と極似していたことから、七〇パーセント位の割合で野球賭博の金だと思っていたもので、残り三〇パーセント位は私自身受け取っていないので、ひょっとしたら別の金かなと思っていました」と供述の訂正を申し立てている。これを見ると、同女が右現金を野球賭博の清算金だと思った根拠は、金額が近似していることに尽きると言ってよいのであって、金額が一致していないことや授受の時刻としては早過ぎること(同女は、60・1・23検面においても、Tが清算日には昼ころか午後七時ころにV方を訪れていた旨供述している。)などに照らすと、同女の野球賭博の金に間違いない旨の供述は、もともと信用性に乏しいものと言わざるを得ない。

(四) Yに持参させたことについて

V(第三回)及びZ子(第一五回)の各証言によれば、TがV方に清算金を届ける際には、必ずT本人が持参していたことが認められ、また、W(第二回)の証言によれば、TがW方に清算金を届ける場合にも、殆どの場合T本人が持参しており、T以外の者が持参したことも数回あったが、その場合には必ずTから使いの者を行かせるという電話連絡があったことが認められる。そうすると、TがV方に他人をして清算金を届けさせるということは、極めて異例のことであり、それが行われたとしてもTから連絡があって然るべきであると考えられる。しかるに、七月六日の清算金交付に際して、TからV方に使いの者を行かせるとの連絡があったことは、証拠上何ら認められない。

このことからしても、YがV方に届けた現金を野球賭博の清算金と見ることには難点がある。

(五) 手形の借金について

被告人は、当公判廷において、七月六日にYをしてV方に届けさせた七六万九、〇〇〇円の現金は、X組組員Aの内妻K子から、不渡りになった手形金を支払うため立て替えてくれと頼まれたので、Aに約五〇〇万円の借金があったことから、立て替え払いしたものであると供述する(第二二回)ので、その信用性について検討する。

この点について、証人Aは、「昭和五九年二月か三月ころTから借り受けた金を返済するために、同年五月ころ七〇万円、八〇万円、九〇万円の三通の手形をTに交付したことがあり(なお、同人は、Tに交付した手形の数について、三回と思うが二回かも知れないとも証言しているが、この点は後に検討する。)、うち八〇万円と九〇万円の二通は決済されたが、X組内M会若頭のLが振り出した額面七〇万円の手形が不渡りとなったため、Tや同人の妻C子から現金で支払うよう何度か催促の電話があった。その金額は七七万円弱だったと聞いている。同年七月初めころC子からK子に、右手形の金をVに支払わなければならないので、至急用立ててほしいとの電話があり、同女は、自分に相談もしないまま、七月六日に被告人に電話でVに立て替え払いしてくれるよう依頼した。被告人も、加古川にいる同女が岡山の被告人に依頼してくるのは余程急なことだと思い、Vにその金を立て替え払いしてやったということを、翌七日の岡山X組総会の席上被告人から告げられて初めて知った。」旨証言する(第二三回)。右証言は、内容が具体的であるだけでなく、Aが昭和六〇年一二月二六日に実刑判決を受けて収監され、証言当時受刑中であって、外部との接見や通信が制限されていたうえ、被告人も同年二月に逮捕、勾留されて以来昭和六一年一月一七日まで接見等禁止の状態にあったことに鑑みると、AがX組組員であることを考慮に入れても、充分信用に値するものと言うことができる。確かに、右証言には、Tに交付した手形の数について、若干曖昧な点もあるが、これは、証言内容の信用性に影響を及ぼすものではないと見るべきである。

また、Tは、Aに対してもともと約四〇〇万円の貸し金があり、昭和五九年七月時点では残高が約七六万円余りとなっていたが、同人からかねて右借金の残金の支払いに代えて、姫路のM会のLの振り出した額面七〇万円か八〇万円の手形二通の交付を受けていたところ、うち一通は決済されたものの、もう一通のVに割り引いてもらったものが不渡りとなった旨証言する(第七回)。この証言は、概ね前記Aの証言と符合しており、Tが右証言当時接見等禁止中であったことを考慮すると、その信用性は高いものと考えられる。確かに、TがAから受け取った手形が二通か三通かという点は、両者の間で証言が異なっているが、この程度の違いは、両者の記憶の差異に基づくものとして、さして信用性には影響を及ぼさないものと見るべきである。

更に、証人C子は、Tが同じ組の組員に金を貸していたことがあり、昭和五九年六月ころにも、手形でAに金を貸したことがあり、額面七〇万円と八〇万円の手形を受け取ったが、うち一通が不渡りとなったので、K子に催促したが、「くれえ」とは言いにくいので、Vに付けないといけないと言って頼んだ旨証言する(第一六回)。この証言は、詳細が必ずしも明確であるとは言えないが、概ね前記Aの証言と符合しており、その信用性を補強するものと言うことができる。

以上を総合すると、被告人の前記供述は、相当確かなものと見ることができる。確かに、検察官も指摘するように、右手形の存在やその金額は明らかであるとは言えないが、Yが届けた現金が被告人の供述するような趣旨の金員ではないかという合理的な疑いが生ずるのは確かである。なお、被告人は、K子の依頼に応じて現金を立て替え払いした理由について、被告人が昭和五九年四月ころ乗用車を購入した際、Aに約五〇〇万円の金員を借りており、その借金の一部を返済するという趣旨もあったと供述しているが(第二一回)、Aも、被告人にそのような金を貸していた旨証言しており、被告人の右供述を裏付けている。

(六) 小括

以上を要するに、Yが七月六日にV方に届けた現金は、検察官の主張するような野球賭博の清算金であると見ることには合理的疑いが存すると言わざるを得ない。

3 七月六日夜V方に届けられた現金の趣旨について

(一) 総説

七月六日午後一〇時ころ、TがV方を訪れてZ子に現金七七万円位を届けたことは、前記一7で認定したとおりである。検察官は、右金員が同日午前中にYがV方に届けた現金が野球賭博の清算金であることを隠蔽して、Vらに右現金が手形金の支払いであると信用させるための裏工作の資金であると主張するのに対し、弁護人は、Tが届けた現金こそが野球賭博の清算金である旨主張する。そこで、以下、右現金の趣旨について検討する。

(二) Tの持参した現金の額について

Z子は、60・3・13検面において、七月六日夜にTから受け取った現金は、一万円札が七七枚の七七万円であったと供述している。しかし、同女は、当公判廷において、「警察から帰ってすぐだったので、何かお金を受け取ったことは覚えているが、それ以外のことは、ちょっと記憶にないんです。Tさんがお金を持って来られた時、ぴったり入っていましたから、ああ野球の金かなと思ったわけです。」と証言し、その額が野球賭博の清算金と同額であったという記憶はあるが、七七万円であったという明確な記憶はない旨証言する(第一五回)。思うに、右検面の作成時期は、七月六日から既に一〇箇月以上経過しているから、その時期に明確な記憶があったかどうかは疑問である。加えて、同女は、七月六日に警察で取調べを受け、それが終わってようやく帰宅した後間もなく、Tの訪問を受けたのであるから、右証言にあるように、金額について特に関心を示さなかったとしても格別不自然ではない。また、一万円札が七七枚の七七万円を受け取ったという右検面の供述も、経験者でなければ述べられないものではなく、特に信用性が高いと言うこともできない。これに対し、野球賭博の清算金の額と同額であったか否かということは、比較的記憶に残り易い事柄であると考えられ、右Z子の証言は、充分信用することができる。

以上の検討からすると、TがV方に持参した現金の額は、検察官の主張する七七万円ではなく、野球賭博の清算金と同額の七六万八、六〇〇円ではなかったかという合理的疑いが残る。

(三) UのV方への架電について

Uは、60・3・11検面において、七月六日の午後一〇時ころV方に架電し、「奥さん、今日持って行った金は野球の付けの金じゃあないんで、わしがVさんから借りとった金の一部を払ったもんじゃから、野球の金と勘違いせんようにしてよ。」と言った旨供述し、同人は、当公判廷においても、右架電の事実自体は認める証言をしている(第五回)。また、Z子も、当公判廷において、Uから電話で、「以前不渡りになった手形のお金を、今お金がないので全部というわけにいかないので、半分程かき集めて入れてあるから、Vに伝えておいて下さい。」と言われた旨証言し(第一五回)、Uが架電した事実を裏付けている。従って、右Uの架電は、事実であると認められるが、検察官の主張するように、これによって裏工作が裏付けられたかどうかは、検討を要するところである。

まず、Uの右検面供述は、前記のとおり、被告人に出してもらったとされる現金のことには何も触れておらず、供述自体で裏工作の内容を伝えるものになっていない。そして、Uが架電した際にTが現金を再度支払うことを伝えなかった点では、右Z子証言も同様である。被告人から現金を出してもらって裏工作をしたとする以上、UがV方に架電した際に右工作に何ら触れないのは、むしろ不自然であり、Uの架電の事実をもって直ちにVに対する裏工作があったと見るには疑問が残る。

Uの架電の趣旨については、当時同人がTに自室を野球賭博の電話の受付場所として提供していたことから、早晩Uにも捜査の手が及ぶことが予想されたうえ、同人には昭和五八年に野球賭博の胴元となった事実があったことから、同人が野球賭博との関わりを否定しようとして、独自にVに口封じをしたと考えることもできる。先に見たように、Uが一貫してVに対する手形の借金が自分の借金であると供述し、Z子に対してもそのように言っているということは、UがTのためというより自分の利益を考えてのことではないかという疑いが残る。

(四) 小括

前記のとおり、Vに対する裏工作に関するTらの捜査段階での供述は、それ自体合理性を欠き、信用し難いものであるが、以上の検討からも明らかなように、他の証拠からも、TのV方への現金の交付及びUのV方への架電をもって、TらのZ子に対する裏工作と見ることには合理的疑いがある。むしろ、Tが野球賭博の清算金を交付したことと、Uが独自に口封じをしたことを、捜査官が関連付けた結果、被告人の現金の出捐を含む二重払いの裏工作が想定されたのではないかという疑いを禁じ得ない。

六 補論

1 総説

被告人の共謀の事実に関する証拠についての検討は、以上のとおりであるが、弁護人は、TやU、Yが警察で暴行を受けるなど違法な取調べを受けており、T及びUの供述には任意性がないと主張するので、この点について、補充的に検討を加える。

2 Tに対する取調べについて

Tに対する取調べの状況は、基本的には前記二1で認定したとおりである。

Tは、当公判廷において、昭和六〇年一月一四日に再々逮捕され、乙山警部補ほか二名から取調べを受けた間、連日のように「おどれ絶対に認めさせたる」「チャカを口に突き付けて認めさせたるんや」「大阪方式でやらにゃいかん」「おどりゃあ雑巾にしてやる」などと言って、被告人との共謀の事実を認めるよう脅迫され、足を蹴られたり、床に正座させられ、その足の上から踏まれたりし、乙山警部補ほか二名の取調べが始まって一週間後位に、両肩を持って倒された際着ていた下着が破れた旨証言する(第六、七回)。これに対し、証人乙山二郎は、そのような事実は一切なかった旨証言する(第一〇回)。しかし、Tが同年一月二六日に取調べ中小指を噛み切ろうとして止められたことは、乙山証人も証言するところであり、その日のうちに取調官が甲野警部補に代わったことは、先に認定したとおりである。乙山証人は、Tの方から甲野警部補に替わってもらいたいという申入れがあった旨証言するが、その理由について首肯し得る証言はなく、右証言はにわかに信用することはできない。そして、右の事実から、Tが取調べの苦痛に耐えかねて右のような行動に及び、この結果、取調官が甲野警部補に代わったものと推認することができる。また、乙山証人の証言によれば、Tは昭和六〇年一月一五日に既に乙山警部補に対して、Vとの野球賭博を大筋で認める供述をしていたことが認められるが、それにもかかわらず、前記のとおり、同月二六日に至るまでTの供述調書は一通も作成されていないということは、この間、Tが専ら被告人との共謀の事実を供述するよう取調官から厳しい追及を受け、この点を否認していたため、調書の作成に至らなかったものと推認することができる(この点について、乙山証人は、Tから被告人との共謀の事実を聞き出そうとしたことを敢えて否定せず、甲野証人も、Tが乙山警部補らから被告人との関係を口火を切って話すよう追及されて困っていると言っていた旨証言する。)。加えて、当裁判所で取り調べたTの着衣の破損状況、Tの証言の具体性及び迫真性、乙山警部補らによる取調べ期間中にかなり長時間の取調べが行われていること(前記二1参照)等に照らすと、Tに対しては何らかの暴行が加えられた疑いが強いと言わざるを得ない。

更に、T(第六、七回)及びC子(第一六回)は、当公判廷において、共に、Tが再逮捕されて勾留中の昭和五九年一二月三一日から翌年一月三日までの四日間、接見等禁止中であったにもかかわらず、C子が岡山西警察署においてTと面会し、正月料理や酒を差し入れた旨証言する。これに対し、証人甲野一郎は、酒の差し入れがあったことは否定するものの、それ以外の右事実は認め、更に、酒の差し入れについても、同年三月初めころ、上司の丑丘警部からそのような事実があったかどうか調査するよう命令を受けた旨証言している(第九回)。こうした事実を総合すれば、同証人の否定にもかかわらず、酒の差し入れの事実があったとの疑いを否定することはできない。

以上のように、Tに対する勾留中の暴行、脅迫並びに接見等禁止中の妻との面会及び酒食の差し入れが行われたとすれば由々しいことであり、捜査の在り方として不当であることは、多言を要しないところである。ただ、Tが本件について供述をするようになったのは、甲野警部補に代わってからであり、同人からは暴行や脅迫を受けた形跡が認められないこと、Tは長年暴力団員として活動してきた者であり、岡山X組の若頭を勤めた者であること、Tは本件取調べの当時糖尿病や高血圧を患っていたものの、一応の治療を受けていたこと(前記二1参照)などに鑑みると、Tに対して勾留中に暴行、脅迫が加えられた疑いが強いとしても、同人の員面及び検面の任意性、特信性に疑いを生ずるには至っていないと判断した次第である。また、接見等禁止中の妻との面会及び酒食の差し入れが行われた疑いが強いという点も、Tの供述した時点とは相当に隔たりがあり、Tの供述との間に因果関係はないものと判断した。

なお、Tは、戊田検事の取調べにおいて、事実関係について質問を受けたことは殆どなく、員面の内容は誤りで、警察では暴行を受けた旨述べたところ、同検事が員面を見ながら勝手に調書を作成した旨証言している(第七回)。これに対し、証人戊田五郎は、そのような事実を否定するものの、前記のとおり、員面と同じ供述である場合は、員面を参照して調書を作成した旨証言している(第一三回)。そこで、Tの員面と検面の内容を比較すると、検面は、員面と内容が対応しているばかりでなく、表現も極似していることが認められる(その典型的な例が、60・2・18検面と2・15及び2・18員面であるが、それ以外にも、60・1・31検面と1・28及び1・30員面、60・2・27検面と2・24員面、60・3・11検面と2・5、2・7、2・23及び3・4員面との間に同様の関係が認められる。)。確かに、供述者が同一であれば、録取者が異なっても内容が一致することは当然であるが、表現まで極似しているのは異例のことであり、検面の作成に当たって員面を参照したにしては参照の程度が広範囲に過ぎると言うべきである。Tの前記証言が誇張に満ち、直ちには信用し難い点があるとしても、戊田検事がTの検面の録取に際して、員面と同旨の供述を引き出すことに急であったことは否定し得ず、Tに対して充分な取調べが行われたのか疑問なしとしない。Tの員面が前記のとおり内容に変遷があり、信用性に疑いがあるのであるから、右のような同人に対する検察官の取調べの方法は、相当とは言い難いが、それでもなお、このことは、いまだ同人の検面の任意性及び特信性に影響を及ぼすには至っていないと判断した次第である。

3 Uに対する取調べについて

Uに対する取調べの状況は、基本的には前記二2で認定したとおりである。

Uは、当公判廷において、瀬戸警察署に勾留されてから最初の五日間は丙川警部補ほか三名の警察官から膝や腹、背中を蹴るといった暴行を受け、「親分のことを言え」と言われた旨証言する(第五回)。これに対し、証人丙川三郎は、Uに対しては、組から完全に足を洗うよう説得したが、そのような暴行の事実はなく、Uが勾留された翌日倒れかかったので、動脈瘤に罹っていることを考慮し、机を縦にして、緊迫感を薄くするよう配慮した旨証言する(第一〇ないし一二回)。しかし、同証人の証言によっても、Uに対する取調べに際しては、少なくとも常時三人が狭い取調室に在室して取調べに当たっていたことになるから、右のような措置を講じたところで、Uに対してどれほど緊迫感が薄らぐ効果があったか疑問である。加えて、Uが勾留された後、昭和六〇年一月二二日から連続五日間長時間にわたる取調べが行われているのであって(前記二2参照)、この間同人の健康に充分な配慮が払われたか甚だ疑問である。また、Uは、警察官から、「保釈で出られるように検察官に頼んでいるが、ここで言ったことを裁判で翻すと保釈も効かなくなるから、書き物をせえ」と言われて、今まで言ったことは裁判では引っ繰り返さないという趣旨の文書を書いた旨証言するのに対し、丙川証人は、Uが同証人と丑丘警部に対して、「今まで警察や検察庁で言っていることはもう翻しません。何なら誓約書でも書きましょう」と言って自ら進んで誓約書のようなものを書いた旨証言する(第一〇回)。しかし、たとえ保釈を希望していたとはいえ、Uの方から誓約書を書くことを申し出るということは、常識的には考え難く、むしろ、警察の方でUが保釈された場合に供述を覆されることを心配し、それを防ぐ趣旨で誓約書を書かせたものと見るのが自然である。なお、丙川証人は、Uが保釈後、丙川警部補に架電してきて、当公判廷に証人として呼ばれたら、警察で暴行を受けた旨証言すると予告してきたところ、同警部補は、Uが好きなように証言すればよいと答えた旨証言する(第一〇回)。しかし、真実警察で暴行が行われていないのであれば、Uに対して思い直すよう説得をするのが通常であると思われるのであって、これを放置したとする丙川警部補の右言動は不可解と言うべきである。また、丙川証人の証言によれば、Uの勾留期間中、X組組員のOから丙川警部補に電話があり、Uが暴行を受けていないかどうかを確認してきたことも認められる。そして、これらの事実に加え、Uの証言の迫真性に鑑みると、Uに対しても警察で暴行が加えられたとの疑いを否定し得ない。

ただ、UもT同様、長年暴力団員として活動してきた者であること、本件取調べの当時動脈瘤の持病があったとは言え、一応の治療は受けていたこと(前記二2参照)などに照らし、Uに対して警察で暴行が加えられた疑いが残るものの、同人の員面及び検面の任意性、特信性に疑いが生ずるには至っていないと判断した次第である。

4 Yに対する取調べについて

Yも、当公判廷において、逮捕されて三日目から床の上に何度も正座させられ、取調べ中警察官から一回殴られて鼻血を出し、それが着衣に付いて洗っても落ちなかったが、総社警察署から岡山刑務所に移監になった若い者にやった旨証言する(第八回)。これに対し、証人丁岡四郎は、Yを正座させたことも、同人が鼻血を出したこともない旨証言する(第一二、一三回)。しかし、証人Pは、総社警察署でYと一緒だったが、同人からもらったパジャマに小豆より少し小さい位の血痕が二個付いていた旨証言する(第一八回)のであって、右証言によれば、Yに対して暴行が加えられた疑いも強いと言わざるを得ない。

七 結語

本件においては、一見すると被告人に対しTとの共謀の疑いを深めるかのような証拠も存するが、それらの証拠は、以上の検討からも明らかなとおり、いずれもその信用性に疑問があると言っても過言ではない。特に、TやU、Yに対しては、いずれも警察で暴行を加えられた疑いがあり、また、Tに対して、逮捕、勾留が繰り返されたうえ、接見禁止中に妻との面会や酒の差し入れが行われた疑いがあるというは、まさに異例づくめと言うほかなく、このような本件捜査の在り方には強い疑念を抱かざるを得ない。結局、本件においては、捜査機関がX組ぐるみの野球賭博というシナリオを描き、被告人がこれに関与しているとの予断の下に、強引とも思える捜査を行ったのではないかとの感を禁じ得ない。そして、本件の各証拠を虚心に検討すれば、被告人が本件に関与したことを示す証拠は、概ね存しないと言っても過言ではない。

以上のとおりであるから、本件の全証拠によっても、被告人とTとの共謀の事実について、合理的疑いを容れない程度の証明があったものと言うことはできない。

従って、本件公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条に従い、被告人に対し無罪の言い渡しをすべきものである。

よって、主文のとおり判決をする。

(裁判官 朝山芳史)

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